わが人生わが経営85 (株)奥田 代表取締役社長 奥田武彦さん(74)【函館】
2018年03月15日
人とのつながり大切 ナンバーワンの自販機を
「50年にわたって会社経営に携わってきましたが、社会、人とのつながりが本当に大切だと思います。これからも時代の流れ、環境に適応していけるよう精進していきます」
奥田さんは1943年、父親の転勤先だった横浜市で生まれます。戦後の混沌とした時代を生き抜くため、一家は51年、知人のつてで青森県の木造町(現在のつがる市)に移住し、煎餅製造を始めます。終戦間もない、物の無い時代ということも手伝い商売は順調でした。しかし、父親が病に倒れ、62年3月、青森商業高校を卒業すると同時に店を手伝い始めます。
売り上げはまずまずでしたが、奥田さんは「最大製造能力は決まっているのだから、3日分の商品を1日で売り、空いた時間で別のことができないだろうか」と発想します。それまでは自転車やスクーターで売り先を回っていましたが、これをトラックに切り替えることで実現します。
販売方法の転換で生まれた時間を使い、63年に始めたのが流通菓子卸です。時代は高度経済成長期。チョコレートやガムなど市場に出回るお菓子の種類が増えていました。煎餅製造はそのままに、卸事業が加わることで経営に厚みが出ます。数年後には郊外から駅前に店を移転させるほど、右肩上がりで成長。参入から3年ほどで卸業一本に絞り込みます。
84年に父親が亡くなり、社長に就きますが、当時の卸業界は構造変化の波にさらされていました。地場スーパーが続々と誕生し、小さな小売店の淘汰が始まったのです。スーパーには1次卸のような大きな会社が商品を供給。小さな商店を得意先としていた2次、3次卸は苦境に立たされました。同社は2次卸でした。
そこで、大規模な体制の見直しを決意。同社は約1600の商品を扱っていましたが、売れ筋の800アイテムに厳選。これにより倉庫管理の担当者が少なくても済むようになり、商品の回転率も上がりました。営業部門では取引先の減少を承知の上で担当者を減らします。「300社あった取引先が200社まで減ることを覚悟していました。いざ、ふたを開けてみると売り上げの少ない50社を失うにとどまり、97%の売り上げを維持できました」と言います。
配送部門でも午前に小口顧客、午後に大口顧客と効率的なダイヤを組み、トラックの台数を削減。小さな商店ではお客の来ない暇な時間帯に商品が届くということで重宝されたほか、結果、配送時間の短縮にもつながりました。こうした取り組みが有機的に結び付き、見事、V字回復を果たします。
同時期の87年、飲料メーカーのダイドードリンコと特約店契約を結びます。ダイドーが自動販売機での飲料販売に本腰を入れ始めた頃で、青森県への進出を図っていました。自販機の専従担当者を配置する必要があるなど参入条件は厳しく、どの会社も手をこまねく中、奥田さんは即決します。業界新聞の記事でダイドー商品の良さを知っていたからです。この判断が後の経営に生きていきます。
一方、本業は飛躍の時を迎えていました。県内でも指折りの規模に成長していた同社の噂を聞きつけ、三菱食品から業務提携の話が舞い込んだのです。94年に提携してからは1次卸の位置付けとなり、ドラッグストアーやスーパーをはじめ大口の小売店が主要な取引先となります。併せて本社を五所川原市に移転。大規模な配送センターを2カ所設けるなど業容は拡大し、商圏は青森県にとどまらず、秋田、岩手、山形県まで広がっていました。
しかし、業界に変革の波が押し寄せてきました。全国展開するコンビニエンスストアや総合スーパーが青森に出店し、全国ネットの問屋も台頭し始めます。激しい競争を続けていては会社が消耗すると考え、飲料事業が堅調だったこともあり、2013年、将来を見通して卸事業に幕を下ろします。
現在、自販機によるダイドー商品の販路拡大に努めている同社。青森県のほぼ全域を網羅し、青森は息子さんに任せ、04年からは函館支店を設けて渡島桧山地区の開拓に自ら乗り出しています。
「ナンバーワンの自販機をつくりたい」と奥田さん。そのためには「きれいに磨かれたクリーンな機械で、お客さんが欲しいと思う商品が常に入っていること、明るいあいさつも必要。お店づくりと同じですね」と熱っぽく語ります。
同友会には08年に入会し、一貫して経営指針研究会に所属。それまでは書籍など独学で経営を学んでいたため「刺激と発見の連続。まだまだ学びたい」と意欲は増すばかりです。
プロフィール
おくだ・たけひこ=1943年4月16日、横浜市出身。父の煎餅製造店を継ぎ、業態転換。
㈱奥田=本社・五所川原市、函館市に支店。1951年創業。ダイドードリンコ特約店として自動販売機で飲料販売。資本金2000万円。従業員25人(パート2人含む)