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【71号特集2】生きる・働く・学ぶことが実践できる企業に

2023年01月26日

生きる・働く・学ぶことが実践できる企業に
―企業の「育てる力」とは―

 

花園大学社会福祉学部 教授 植田 健男(京都)

 

 社員が生き生きとやりがい、生きがいを持つ職場のあり方、企業が人を育てる力をどのように生み出していくのかを教育の原点に立ち返って考えます。さらに経営者と社員の立場の違いを超えて人間らしく生きるための学びと働くことのあるべき姿とその関係を学びます。

 


 

 私は、企業経営とは人を安く雇用して働いてもらい、利益を上げることだと考えていました。従って、人そのものを大事にしながら人間を育てる経営など、本当に成り立つのだろうか?という不信感のようなものがあり、これはなかなか解けない問題だと思ってきました。

 

 ところが同友会に出会い、本当に人間尊重を軸において経営をしている企業が全国にあることを知って驚きました。北海道同友会の大久保さん(元北海道同友会専務理事)の存在は、私に大きな影響を与えました。今回は『共に育つ1』の新版に大久保論文が出ていましたので、改めて読み直したうえで報告を組み立てました。

 

 まず、本日のタイトルにもある企業の「育てる力」がキーワードになります。この「育てる力」には、当然「教育」という言葉が浮かんでくると思います。これは非常に簡単な話のように見えて実はとても難しい、本質的な問題ですので、教育とは何か、ということから考えてみようと思います。

 

経営者にとっての「教育」の率直な悩み

 企業の中の教育といえば、仕事を進める上での知識や技能を社員に習得してもらうということが大前提だと思います。しかし最近入社してくる新入社員は、自ら意欲的に学び、考え、働くという姿勢が非常に弱くなっているという不安を経営者の皆さんは抱いていると思います。学校で若者たちは一体何を学んできたのだろうか? 学校(教師)は一体何を教えてきたのだろうか?という思いに駆られているのではないでしょうか。

 

 皆さんには、入社後はとにかくネジを巻き直し、必要なことを厳しく叩き込まなければいけないという思いがあるでしょう。しかし、だからと言ってあまり厳しく接すると、すぐに辞めてしまうかもしれませんから、その力加減がよく分からないという悩みもあるかと思います。

 

 本来であれば、そもそも教育が世の中でどのように捉えられ、どんな実態なのかというところから考え直さなければいけませんが、教育を専門にしているはずの学校の世界では、このようなことが問題になることはありませんでした。

 

 

働くことに消極的になった若者たち

 今回のコロナ禍で、実は「学校とは何だろう」「教育とは何だろう」というとても大切な問いかけがなされたと思います。

 

 確かに学校は様々な知識を教えていますし、若者たちも学んでいます。しかしその先にある、人間として生きるということはどういうことなのかという問いに対して、学校でどれだけ答え、若者たちの悩みに付き合ってきたのでしょうか?

 

 実際には、若者たちの多くが「働く」ということをほとんど学べないまま学校を卒業していきます。より良く働くためにも学ぶ、という大事なことから切り離され、「学ぶ」ということだけが行われています。長年、そこに手を入れられずに来てしまった経緯から、最近の若者たちが働くことに対し、あまりに消極的になってしまったことが指摘されるようになりました。

 

 そこで文科省も、インターンシップをはじめとする、働くことについての教育へと動き始めました。実際は職場体験をさせるだけの話に終わっていて、生きること、働くことの意味を学ぶところから切り離されてしまっています。根本的な問題は解決されていないと見るべきです。

 

知識や技能を教え込む現代の教育の図式

 「教育とは何か」という根本的な図式は、学校では圧倒的な知識を持っている教師が、何も知らない若者たちに知識や技能を教えるということになっています。企業内においては、経営者もしくは上司や先輩が教師役、新入社員が生徒役というような位置関係になると思います。もちろん、企業活動を行う上で必要な知識や技能は教え、学んでもらわなければ困るのだと思いますが、これが教育のすべてなのかというと、そこには大きな問題があります。

 

 私は、名古屋大学に30年近く在籍していました。はたから見ると、きびしい受験競争を乗り越えて入学してきたエリート学生が、しっかりと学問の世界に入って勉強していると思われるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。

 

 学生たちは、大学に入るまでに記憶中心の勉強を死ぬほどしてきたため、「疲れ切っていて、大学に入ってまで勉強などする気はない」と、率直に話してくれました。そして「大学を卒業したら、自分の父親のように大して好きでもない仕事に就いて、家族を養うためにまた死ぬほど働くことになるのでしょう。本当に自分がやりたいことができるのは、この大学の4年間だけなのだから、学問しようとか、勉強しようとか、暑苦しい話はやめてほしい」と言うのです。

 

 そういう学生たちと、私は教育・研究者としてのプライドをかけて、対峙してきました。すると学生たちは青ざめて、さすがにそこからは真剣に考えはじめてくれました。

 

 

映画『学校』に見る「学び」の現状と課題

 授業で必ず私が学生たちに観てもらうのが、山田洋次監督の映画『学校』(松竹映画1993年)です。なぜこの映画を選んだのかというと、受験の偏差値教育でとにかくたくさんの知識を丸暗記し、吐き出すことこそが優秀なのだと思ってきた学生たちに、今までとは違う学びがあるかもしれないという提起をする際、映画『学校』の第1作〝シーン99〟がとてもわかりやすいからなのです。

 

 この映画の舞台は夜間中学校です。出てくる登場人物は、焼肉屋を経営している在日のオモニ「キムさん」、読み書きもまったくできない中国残留孤児の子ども「チャンくん」、登校拒否の「江利子」、元暴走族の「みどり」、青年労働者の「和夫」、読み書きもできないまま東京に出た壮年労働者の「イノさん」、担任で国語教師の「黒ちゃん」の7名です。

 

 〝シーン99〟は壮年労働者のイノさんが重い病気にかかり、故郷に帰って療養していたのですが、卒業式だけは来るからとクラスメートに約束をしていたのにもかかわらず、彼の訃報が届くところから始まります。そこからイノさんの生い立ちや「学び」と「幸福」を巡り、本気の討論が展開していきます。

 

 主人公たちは、様々な困難を経て夜間中学校に辿り着いた経緯から、イノさんがこの学校に入学したことが果して「幸せ」だったのか?という疑問を投げかけます。主人公たちが学校に行くことで「私、幸せになれるかもしれないと思った」というセリフや、「自分たちがここで学んでいるのは『ああ生きたいなとか、生きていてよかった』ということを感じることだよ」。そして「それを知るために私たち勉強するんじゃない?」という言葉が続きます。

 

 主人公たちが学んでいる学校は、偏差値競争に打ち勝ち、高学歴をつける場所ではなく、ごく普通に働いて生きていくことを仲間たちと一緒に学びあう。それができるようになることを喜び合うという世界です。つまり、彼らにとって学ぶこととは「人間らしく生きていく」こと。それが自分たちの「働く」ということにつながり、そして、その先の自分の将来をつくっていくことに喜びを感じるということです。

 

 また、学びを理解する中で、人として成長し、どんどん変わっていく自分を知る。そういう喜びもあります。同時に、働くことが前提で学ぶということは、「働く・学ぶ・生きる」ということがリンクした世界を山田監督は表現していると感じます。

 

 「優秀」と言われる学生たちがこの映画を見て、受験を通して自分たちは完全燃焼してきたけれど、実は違っていたのではないか?ということを少しずつ考えるようになります。ただゲームのように勉強し、点数が取れたから面白かったということだけが、学びの喜びではないと感じ始めるのです。

 

 

内面評価の導入と働く意欲の減退

 もう一つの視点として、20年程前から、学校での態度が悪くても、テストの点数さえ高ければ高評価されてしまうことを見直すために、観点別評価を導入し、意欲・関心・態度も評価の中に入れることになりました。

 

 そうすると、勉強ができるだけでは評価されないため、先生から積極的に学び取り「わかった・うれしい」という態度を見せるぐらいの演技をしないと、高評価につながらなくなり、いかに大人に対して従順な態度を示すかが問われるようになりました。この頃から、若者たちは大人にものを言わなくなってきて、みんな押しなべておとなしくなっています。反抗的な態度をとったり、「やってられない」ようなことを言ったりする若者がいなくなりました。これは彼らの内面の評価にまで立ち入ってしまったからです。

 

 このように、大人が今のルールをつくっているため、若者たちは仕方なく付き合ってくれているだけで、決してそのことに満足しているわけではないのです。実は教師も同様に、学校全体が何だかよく分からないルールの中にはめ込まれていき、働くことや生きることからどんどんかけ離れてしまっているのです。

 

 このような背景からみても人間として生きていく、人間として成長していくということとは関係なしに、偏差値で学力が語られてしまう現状を私たちは見過ごしてはいけないと思います。

 

 

「育てること」の意味と教育の目的

 同友会の「人間尊重」という原理につながりますが、教育の基本は「ヒト」を「人間」に育てるということです。生まれてきた段階で私たちは、あくまでも生物としての「ヒト」でしかないのです。では、赤ちゃんに栄養を与えて時間が経ったら、人間という存在になるかというと実はそうはならないのです。

 

 有名な狼少女、アマラとカマラの話があります。遺伝子の中に織り込まれているから、人類の進化を全ての人が再生できるかというと、「人間」に育つための必要な学習が必要な時期に必要な中身で教えられないと、「人間」にはならないということがこの事実で語られています。

 

 私たちは、無限の可能性という言葉で語りますが、それはあくまでも可能性であり、学習が伴わないと実現されないまま終わってしまうことが出てくるということです。経験の世界で物事を考えるのではなく、どこにどんな問題があり、どのような可能性があるのか、これからの子どもたちにどんな学習をどの時期にしなくてはいけないのか、ということを考えなければいけないと思います。

 

 教育基本法でいう教育の目的とは、知識や技術を与えることであると言っていません。教育の目的とは「人格の完成」だという言葉を使っています。この言葉は「一人の人間として、自立をしていくことこそが、教育の目的である」と読むべきではないかと考えます。この言葉は学校だけの課題ではなく、家庭や地域や企業、社会においても通用すると思います。

 

 名古屋大学に来た学生にも、本当はそれぞれ、かけがえのない自分や周りの人たちがいます。人間を人間として尊重し、それぞれが協力し合い、基本は自分の足で立って歩くことが教育の目的だと考えると、知識、技術を伝えることは基本中の基本ではあっても全てではないのです。

 

「教育」と「共育」について考える

 これらの教育とは、子どもたちが人間になるための、大人たちからの激励であり贈り物です。多くの若者たちは、本来理想とする教育とはほど遠いところで育てられてきています。もしかすると家庭や地域もそうかもしれません。そのような若者たちに、「そんなの価値ないよ」と言ったところで聞いてくれません。

 

 「よく頑張ってきたね。だけど、こういうところでもっと考えなきゃいけないのではないか?」という見直しのポイントになるような部分をしっかり提供していくような歩み寄りが必要だと思います。経験値や上下関係があるとしても、同じ企業の使命を果たしていく仲間という視点で考えると、「共育ち」は意味がある言葉です。

 

 より良い生き方を求めて、この職業で実現していくという使命を持つことの大切さを学んでもらい、そのために企業の存続に意味があることを理解してもらう必要があります。企業は、社員が人間になっていく場所であるべきだと思います。働くこと、学ぶこと、生きることを実現できる企業は、本当に理想の企業です。

 

 やる気がない、学ぼうとしない若者たちに、上から目線で知識や技能を詰め込まなければいけないという意識で追いかけても、きっと彼らは逃げていきます。役に立つか、使えるかという視点での人材という捉え方ではなく、これから数十年未来の担い手としての社員として、教育の捉えかたをもう一度考え直してみませんか?

 

(2022年7月11日「第4回『人を生かす経営』研究セミナー」より 文責 石戸谷 和政)

 

花園大学社会福祉学部 教授 植田 健男(京都)
講師プロフィール
1955年兵庫県生まれ。京都大学大学院博士課程学修認定退学。京都大学教育学部助手、大阪経済大学経営学部講師、名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授を経て、現在、花園大学社会福祉学部教授、名古屋大学名誉教授。専門は教育経営学で、教育課程づくりを軸とした学校づくりについて研究を進めている。