【71号アーカイブ】私の経営哲学
2023年01月12日
私の経営哲学 ―わが「人間主義経営」―
長谷川産業㈱ 社長 長谷川 晃三(帯広)
長きにわたり同友会運動を支えて下さった、とかち支部の長谷川晃三氏が2022年5月7日、101歳で逝去されました。長谷川氏は1975年帯広支部設立時に初代支部長となり、12年間にわたり支部長をつとめます。1977年から1995年までは理事を歴任されました。長谷川氏を偲び、『北海道同友第30号(1983年)』に掲載された文章を再録いたします。
九死に一生を得て復員
私は、1934年、帯広に生まれ、樺太で終戦を迎え戦後も3年間シベリアで抑留生活を送り九死に一生を得て、帰国しました。
戦地から帰って、自由の有難さ、幸せの空気を胸いっぱいに吸い込みよしやるぞと歩き出した時のうれしさは忘れられません。
まことの商売で儲ける~仕入帳を公開~
復員後、1950年に家具屋の商売を始めました。家具屋といっても店舗も看板もなく、住宅の軒先に家具を並べただけの簡単なもので、仕入帳をお客さんに公開し、一割以上はいただきたくないとお願いしてお客さんに値段をつけてもらいました。このため安いと評判を呼びお客が殺到しました。
物不足にあってもけっこう荷物が貨車で駅に入り、取りに行かなくても、お客が馬車などで直接乗りつけ、争って買っていきました。このため運送の経費も要らず、回転が早いので一割以下の利益でも儲かって仕方がありませんでした。ガラス張りの「真(まこと)の商売」ほど強いものはないと悟りました。得てして、儲けよう儲けようとするほど儲からないものです。
北海道一のインテリア・ハウジングチェーンを展開
私は、どうせ商売を始めるなら夢は大きく持とうと、5年で帯広一、10年で道東一、15年で北海道一、そして20年で日本一という計画を立てました。社員と共に朝6時くらいから夜11時くらいまで文字通り朝から晩まで死にもの狂いで働きました。その当時の社員が今でもいますが、その時が一番楽しかったと言っています。その甲斐あって13年目までは順調に発展させることができました。
しかし、無理がたたってか、私は病で倒れ、悪いことは重なるもので釧路店において大きな貸倒れが発生し、その計画は大きく変更せざるを得ませんでした。無理をしない方針で中身の濃い企業づくりへの転換です。
けれども、その後、試行錯誤の歩みの中で、現在、帯広に本部を置き、家具・インテリア・建材を中心に、帯広・釧路・北見・紋別など主として東北海道に8店舗、札幌に卸センター、苫小牧に営業所を設けることができるようになりました。年商も88億円(1982年2月)を上げ、北海道で一番、全国ランクでも第8位になることができました。
大幅な権限委譲で組織活性化
各店は完全ともいえる独立事業部制をとっており、店長には社長と同じくらいの権限を任せています。各店の店長には、社長印を押した小切手帳を渡してあり、支払いについて社長はいちいち干渉しません。銀行もどこと取引きしてもよく預金も任せ切っています。
当初この制度を実施しようとしたら、メイン銀行からそれだけはやめた方がよいと猛反対され、そんな危険なことをするなら取引きを考え直さなければとまで言われました。しかし、私は、社員を信頼し、自分の信念に基づいてやるのだからと頑張りましたら、銀行も渋々認めました。
幸い、この十数年間、全く事故はなく、全面的に信頼することによって幹部たちは猛烈にやる気を出してくれました。
毎月純利益まで出す本決算を実施
このように自由に仕事を任せ切っている一方で、毎月本決算を実施しています。棚卸しもやり、純利益も出し、償却もし、雑損まで整理する本格的なものですからたいへんでした。年1回から、年2回、年4回と徐々に頭の切り換えを計りながら毎月決算に移行していった訳です。
毎月決算を15年もやると、今度はフロア長(4~5億円を担当)がデーターに夢中になって、自分が社長になったつもりで経営を分析するようになり、私が報告を求めなくとも向こうから出た数字の説明をしに来るほどで、すばらしく経営感覚が伸びました。我社では、女性でも決算できる優秀なものが何人もいます。
この決算を手にして、毎月、幹部の話し合いをしますが、問題点を分析して、自主的に対策をたててやっていますので、社長はもう要らないみたいなものです。
スーパー営業マンを生み出した報奨制度
外商などの営業マンの場合、一カ月の荒利が90万円以上出たら、そのこえた分の一割が本人に還元されます。売上げは関係ありません。これは毎月ではなく3カ月分プールして四半期ごとに支給します。この制度をとり入れたところ、前半までは、一番売る人間でも年間6千万円が限度であったものがなんと1億5千万円も実績を上げたのにはびっくりしました。
朝早く、夜遅く、日祭日も関係なく出る者もあり、奥さんや親から親戚、友人までが応援し、ファンまで生まれたというスーパー営業マンも誕生しました。
しかし、人事異動がスムーズにいかないという弊害もあります。担当が変えられると、自分の得意先がゼロになり、また一から新規開拓をし直さなければならないものですから様々な理由をつけて転勤を渋るわけです。また、部下の面倒見が悪くなり、どうしても一匹狼的な人間が多くなる問題もあります。
とにかく、やってみるといろんな問題が出てきますが、話し合いの上で手直ししていけばよいと思います。竹を割ったようにスパッとした完全な制度は出てこないでしょう。
以前はお正月用のカレンダーなど販促用の景品を作っても忙しくてなかなか活用されなかったのですが、現金なもので、この報奨制度をとり入れてからというもの、山のように積まれていた景品もみるみるうちになくなり、社員も顧客開拓に忙しいという状況になりました。
このように、ただ上からやれやれと言うだけではなく、社員が自主的にやる気を出すような仕組みをつくることも一つの生き方だと思います。
希望の持てる制度づくり独自の持株制度と企業年金
我社では社内結婚が多く、私が仲人をすることが多いので、社員は言わば、私の子供のようなものです。しかし、社員に対する愛情だけで社員が社長を信頼し、将来に希望が持てるかというとそうではありません。会社がよりよい生活を追求する以上、その制度自体も希望の持てるものでなければなりません。
そのため、社員達の努力に報いるためにも、10年以上勤務した社員のうち貢献度の高い者には会社の株を無償で持たせています。
また、老後の生活も保障できるようにと企業年金も導入しています。55歳で定年ですが、希望すれば65歳まで勤めることができます。給与は大卒の初任給と年金の利息分となっています。65歳を過ぎると企業年金で完全に老後を保障しています。
現在、住宅産業は、最悪の状態です。全般的に今日の景気の状況は今後20年は続くと見ています。これからは業種にとらわれない商売が伸びると思います。当社も今まで育ててきた人材を力にして、いろいろな事業を手がけていきたいと思います。
経営者は情報力と先見性と決断力が必要です。会社の仕事は社員に任せ、私はもっぱら札幌、東京、外国へといろんなところに出かけ、様々な情報を仕入れ、常に大局的な立場から判断するようにしています。
長谷川産業㈱ 社長 長谷川 晃三(帯広) |