【70号特集4】箱館戦争からコロナ禍まで
2022年02月05日
箱館戦争からコロナ禍まで
―創業142年、老舗企業の歩みから―
(株)五島軒 取締役会長 若山 直(函館)
創業1879(明治14)年。函館で創業者の若山惣太郎と戊辰戦争を戦った五島英吉がパンと西洋料理のレストランとして開業した五島軒。5度の火災にも負けず、伝統を守り、新たな歴史を刻んできた同社の142年の歩みに学びます。
五島軒誕生前夜
160年前の箱館は「西洋文明の玄関」とも言われていました。
日米修好通商条約が締結された翌1859年に、箱館は横浜、長崎と共に国際貿易港として開港しました。幕府は同様にイギリス、ロシア、オランダと和親条約を締結し、世界に門戸を開きます。外国船が相次いで入港し、箱館を玄関口とした西洋文明が日本にもたらされたのです。
1860年、ロシア領事館が箱館に開設され、付属聖堂として「函館ハリストス正教会復活聖堂」が建てられます。街にはすでに、ロシア菓子や料理店、毛皮店、ロシア漁業関係者の会社もあったといいます。
一方、1868年に榎本艦隊が箱館に入港し「箱館戦争」が勃発。五稜郭は落城し、土方歳三は戦死、榎本武揚は新政府軍に降伏します。この時、五島列島の出身で長崎奉行所の通訳官・五島英吉は旧幕府軍に加わり、榎本軍と共に五稜郭に籠城していました。降伏後、ハリストス正教会に逃げ込んだ五島は、教会・領事館の下僕として炊事・洗濯に従事し、ここでロシア料理を習得しました。
五島軒の創業と洋食
五島軒の創業者・若山惣太郎は、1855年に埼玉の医者の家に生まれました。家業を継ぐことを嫌い上京して起業しましたが、相場で失敗し、1878年に再起をかけて函館に渡り、翌年富岡町(現・大町)でパン屋を開業します。
当時の函館は日本唯一の西洋野菜の生産地。惣太郎がつくったパンは非常に好評で、外国船からも大量の注文があり、明治後期には、東京・横浜・神戸まで船便で配達するほどでした。
惣太郎は同年、10年の年季が明けた五島英吉と出会い、初代コック長に迎え「ロシア料理とパンの店・五島軒」を当時の繁華街であった旧桟橋前で開業します。ここで現代につながる「カレーライス」「ハヤシライス」「オムライス」「チキンライス」など、和洋折衷の「洋食」の原型ができました。またパンの普及により、パン粉で揚げる魚のフライ、コロッケ、かつ丼などのメニューも登場し、現在の「和食」はほぼ完成しました。
「五島軒」の名前は、二人で事業を始めるときに「創業者の功労を称える」という形で店名に五島の姓を取ったのでしょう。コック長の名前を取ったレストランは珍しいと思います。
大火に負けず業容を拡大
浜風の強い函館は幾度も大火に襲われ、当社は5度も全焼・類焼しましたが、そのたびに社員や取引先の支援で立ち直り、業容を拡大し、新たな歴史を刻んできました。
最初の店舗は1886年の大火で消失しました。当時はロシア料理ではなくフランス風を好む人が多かったため、大火を機に五島は横浜に去りました。
「店の味は働く人間の能力次第」を座右の銘にしていた惣太郎は、フランス帰りの調理人を横浜から迎えます。同年、旧八幡坂下(現末広町)にフランス料理店を開店し、「フランス帰りの調理人を迎えて仏蘭西料理店開店」という新聞広告も出します。パンの販売もあわせ、本格的なフランス料理店のスタートでした。以来、現在まで一貫して「フランス料理と洋食」の看板を掲げ、本店ではロシア料理も提供しています。
1901年には、日本銀行隣接地にビリヤード場を併設した西洋料理店を新築移転し、ますます繁盛しました。後に2代目となる若山徳次郎は同年、メニューに磨きをかけようと東京・帝国ホテルで修行します。そして函館の材料と風土に合わせたカレーレシピを完成させ、当社を象徴するメニューとなりました。
1907年には、再び大火で店舗が全焼し、末広町の現在地に新築移転します。1917年、初代惣太郎が亡くなり、長男徳次郎が事業を引き継ぎます。徳次郎はオーナーシェフとして終生厨房に立ち、当社のフランス料理と洋食の基礎を築きました。代々の料理長も研修生として帝国ホテルに入社し、研鑽を重ねました。荒れ地に根をおろし、爽やかな香りを振りまき続けるすずらんをデザインした社章ができたのもこの頃です。
1921年、3度目の大火に見舞われた後、現在地に一部鉄筋コンクリート、地下1階、地上3階の店舗を新築。2階の一部と3階で「五島軒ホテル」を併業します。
ところがこの本店とホテルも1934年、函館史上最大の函館大火で全焼してしまいます。この大火は死者2166名、焼損棟数1万1105棟もの被害をもたらしました。復旧しようにも資材が足りず、小樽支店を閉鎖して資材を函館に運び、市内3カ所に仮店舗を設営、3カ月後にようやく営業を再開しました。翌年、現在地に一部3階、地下1階の現本店を新築したのです。
会社は膨大な借金を抱え、経営は火の車でした。その矢先、上京していた長男・勇を訪ねてきた徳次郎が、神田駅で急死してしまいます。跡継ぎになることを迷っていた勇に後継を決断させたのは、高校時代一緒に厨房で働いた社員たちの声でした。1938年、勇は徳次郎を襲名し、3代目として社員と共に再建に踏み出します。
1939年、第二次世界大戦が勃発し、1941年には徳次郎が召集されます。3年後に除隊しますが、店は西洋料理店であることを理由に函館警察署長が営業禁止命令を下していました。怒りに燃え軍服姿のまま警察署に乗り込んだ徳次郎は、署長と交渉し、ついに即日営業を再開させます。
美味しくなければ食べてもらえない
1945年8月、日本は終戦を迎えます。ところが10月、今度は米軍が本店「五島軒ホテル」を接収し、第9軍団第77師団司令部が設置されます。徳次郎は戦後、函館市内が復興し始めた時期に司令部から管理人として徴用されてしまったのです。その間、函館市から市民会館の前身であった建物を借り、細々と営業を続けていました。会社の存続をかけて本店と変わらない味のカレーや魚のフライなどの総菜を販売し、接収解除まで5年間、頑張ったのです。
本店の営業が再開すると、それまで守ってきた味を求めて多くの客が来店し、会社は急成長します。徳次郎の座右の銘だった「味は飛び切り、値段は手ごろ」「手抜きはしない」という信条を市民は認めてくれたのです。
その後高度経済成長の波に乗り、徳次郎は市内に食堂、洋菓子、総菜、化粧品、喫茶などを多店舗展開します。また五島軒がモチーフとなった船山馨の小説『蘆火野』にちなみ、本店内にメモリアルホール「蘆火野」をオープン。船山氏の原稿や彫刻家佐藤忠良氏の挿絵など、創業期以来の版画や調度品、洋食器などを展示しました。
1985年9月、徳次郎が会長に、専務だった私が4代目社長に就任します。私は大学卒業後、ドイツに半年留学し、フランスのヴィシー市立ホテル学校でフランス料理を学びました。その後、市内の高級ホテルでコックとして修業するなど、欧州に7年滞在しました。そこで「美味しくなければ食べてもらえない」という現実を叩き込まれ、「お客の要望を察知してそれを満たせ」という精神を座右の銘としてきました。
バブル崩壊と5度目の火災
1988年、青函トンネルが開通し、これを境に函館は北洋漁業、造船、連絡船の町から、観光都市へと大きく生まれ変わりました。青函博覧会場に当社が出店したレストランのカレーが人気を博し、カレーの缶詰の品切れが続きます。そこで1993年にはカレーの缶詰とケーキを製造する第1工場を、1999年には「レトルトカレー」専用の第2工場を建設します。
一方、バブル経済が崩壊し長期不況が続きました。当社は市内の食堂や店舗を順次閉店。代わって東京営業所を設置し、軸足を商品販売に移しました。また1997年には、当社のメインバンクだった拓銀が経営破綻します。長年拓銀から財務担当として出向者を迎え、社内で財務担当役員を育成していなかったツケがこの時露呈します。さらにコンサルタントの親会社が倒産。これら一連の事態を教訓に、自社の進路を決して人任せにしてはいけない、そしてどんなに苦しくても、トップ自らが経営責任を負うべきだということを思い知らされました。
1997年には、北海道第1号として本店旧館が国登録有形文化財に登録されます。ところが2002年9月25日の夜、隣家からの出火で5度目の類焼に見舞われます。先代の徳次郎会長は「社長、元気出せよ。前の4度の被害に比べれば、今回が一番軽い」と励ましてくれました。また大勢のお客様に、電話や手紙で激励されたことも忘れられません。
コロナ禍での挑戦
ところが今度は、コロナ禍による激しい減収に直面しました。本店宴会部門の売り上げはマイナス90%となり、レストラン部門もマイナス70%まで落ち込みました。一方、巣ごもり需要で商品販売は10%増です。東京オリンピック需要を当て込み、函館市内のホテルは10棟ほど増加しました。コロナ禍の収束で、安心して旅行できる環境が待たれます。
少子高齢化のため婚礼市場は縮小し、ブライダル貸衣装店は閉店が続いています。さらに、団塊世代の退場後は、葬儀場の閉店が相次ぐと予測されます。また地場企業の減少で一般宴会は期待薄、修学旅行は少子化で減り続けています。外国人観光客は、コロナ禍でまだ見当たらない状態です。
そういう環境下で2018年8月、長男の豪に社長交代しました。5代目へのバトンタッチです。新社長は売り上げの3本柱「レストラン、宴会、商品販売」を見直し強化するべく、次の方針をもとに布石を打っています。
第1の柱は、「商品販売」を主力に据えることです。
①当社の最大の強みで売り上げの6割を占める商品販売に主力を置きます。そのため第一工場のトンネル釜を更新し、創業当時の「パン屋」を再開します。北斗市の工場運営規則により「直営売店」を置けないため、移動可能な販売用の車両を購入し、催事にも出張し、ケーキやカレーのテイクアウトで五島軒の味を広めていきます。
②新商品の開発。トラピスト男子修道院製発酵バターを100%使ったカレーを発売しました。また福島町で完全陸上養殖に成功したエゾアワビを使ったレトルト商品「北海道福島町あわびカレー」も発売。この商品は1400円と高価ですが、売れ行きは好調です。
③縄文スイーツの販売。北海道・北東北の縄文遺跡群が、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。これを記念して函館スイーツ協議会(会長・若山直)では、「縄文スイーツ」の販売と、様々な催事を予定しています。
第2の柱は「宴会」の抜本的見直しです。
本店にある「芙蓉の間」は着席300名収容の大宴会場ですが、問題は稼働率が低いこと。宴会は週末や大安などに集中し、平日や仏滅にも人員を維持し続ける必要があります。近年、函館に進出したホテルにはいずれも宴会場がなく、当社の宴会場を活用してもらう可能性があります。これまでの実績を生かし、新たなニーズを掘り起こしたいと考えます。
第3の柱は「新千歳空港店」のオープンです。
2021年7月に新千歳空港店を開店し、新メニューの「五島軒カレーうどん」を投入しました。「うどん文化発祥の地」と言われ、日本3大うどんの一つでもある五島列島のうどんは、名産の椿油を練り込んだ細麺が特徴です。五島軒の初代コック長・五島英吉がつくった明治時代から続く「カレールー」を、令和時代の「五島うどん」に絡めて味わってもらうのが目的です。函館と五島列島の縁を日本中に広めると共に、レトルト・缶詰・ケーキの売り上げにつなげたいと考えています。
世界を変える日本の食文化
2013年、「和食・日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。まさに世界の食文化は、日本化しつつあります。インド人はカレーライス、ロシア人はボルシチ、フランス人は海老グラタンと寿司など、日本食や日本化したメニューを好みます。フランス料理は「和食のつきだし」を「アミューズ」(店が無料で提供するおつまみ)と呼んで採用し、ポール・ボキューズなどのヌーベル・キュジーヌ(新しい料理)には日本食の影響が見られます。和食は世界の料理に大きな影響を与えているといえるでしょう。
北斎がフランス絵画を変え、やがて世界の絵画が変わったように、日本の「オタク文化」はアメリカを変え、世界を変えつつあります。今こそ「失われた20年」の底流にある、日本の文化的価値を再評価する時ではないでしょうか。
フランス型発想に学ぶ
一方で私は、日本は「フランス型発想」にもっと学ぶ必要があると感じます。
例えばパリのホテル群は交互に休業し、社長以下全員が1カ月のバカンスを取得することで、豊かさと質の高いサービスを両立させています。
調理師免許のテストは、受験者のつくったメニューを、ホテルオーナーたちが商品価値を基準に判定します。そのためにオーナーがメニューを持ち帰り、売れなければ不合格になるという厳しさです。
教育の分野では、バカロレア(全国共通大学入学試験)に合格すれば、何歳からでも大学に入学でき、受験産業と浪人はありません。しかも、大学までの教育費は無料です。奨学金は給付制で、教育費の心配をせずに安心して出産・子育てができるのです。日本もこうした社会に転換できたら、どれほど豊かな可能性が開けることでしょう。
そのためにも、私のように青年時代に海外で働いた経験をもつ日本人がもっと増え、ディベート好きが増えてほしいと思います。なぜなら、論理をぶつけ合うことこそ、変革の出発点なのですから。
コロナ禍は新しい希望を生むと確信しています。
(2021年10月13日「第9期経営者大学パートⅢ『北海道論』コース」第3講より 文責 小村昌弘)
(株)五島軒 取締役会長 若山 直(函館) ■会社概要 |