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【70号特集4】北海道・北東北の縄文遺跡群を巡る旅

2022年02月05日

北海道・北東北の縄文遺跡群を巡る旅
―縄文時代から現代へ遺されたメッセージ―

 

北海道大学大学院文学研究院 考古学研究室 教授 小杉 康

 

2021年7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群(Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan)」がユネスコ(国際連合教育科学文化機関)世界文化遺産に登録されました。1万年以上にわたり狩猟・採集・漁労による定住生活が送られていた縄文時代。自然と共に生きていた人々と精神文化について学びます。

 


 

 世界遺産には建造物の他に遺跡も多くあり、そこには考古学という分野が関係しています。今回は新たに世界遺産に登録された『北海道・北東北の縄文遺跡群』の紹介に先立ち、まず考古学とは何か、遺跡、世界遺産とは何かということのお話をし、その上で世界遺産に登録された主に北海道の各遺跡の紹介をしていきます。

 

 

考古学とは何か

 考古学と聞くと原始や古代、古いことを研究する学問だと思われがちです。考古学に対して文献史学という学問分野があります。これは普通の歴史学で、「文字」を用いて研究するものです。対して考古学は、文献を用いない「物」の研究になります。


 物は遺物、遺構、遺跡という3つに分けられます。遺物は考古資料で、手に取って動かすことができる動産的なものと定義されています。それに対して遺構とは、大地に作り付けられていて原則動かすことができないもの、例えばお墓、橋、家などのことです。そして遺物と遺構がある一定の状態にある場合、日本ではたいてい埋まっていたりしますが、それを遺跡といいます。考古学はこのようなものを研究しています。


 広辞苑で考古学を引くと、「遺跡や遺物によって人類史を研究する学問」とあります。人類史の始まりは、700万年前と言われています。それではいつまでが人類史なのかというと、現代の我々も含めて今日までが考古学の研究対象となっているのです。

 

現代における考古学

 

 現代における考古学の例として、2020年に開業した東京の高輪ゲートウェイ駅があります。工事の前に遺跡があることはわかっており、発掘調査を行うと「高輪築堤」が見つかりました。「高輪築堤」とは1872年に日本初の鉄道が敷かれた際、海上に線路を敷設するためにつくった鉄道構造物です。日本の鉄道史、近代史においても非常に重要な遺跡であり、錦絵にも登場しています。何とか保存できないかという運動が起こりましたが、保存するには400~500億円かかるという膨大な試算が出ました。結局、全体で約800m確認されていたうちの約120mが保存されることになりました。


 同様のケースは全国でも多く見られます。何か新しいものを建てる際に遺跡が見つかると、誰が発掘調査の費用を出すのかということになります。今は受益者負担の原則により工事をする側が負担すると言われています。古代、原始のものだと古くて大切だということで納得できるかもしれませんが、「高輪築堤」のように比較的新しいものに関しては、その辺の取り扱いが難しくなります。


 それでは実際にはどれくらいの古さのものまでが緊急発掘調査の対象になるかというと、中世、つまり鎌倉時代ぐらいまでは、間違いなく遺跡だと認められています。それ以降、近世、近代、現代に関しては各自治体の裁量、判断に任されています。したがって考古学を研究することは、実は我々が日常、開発行為をしながら生活している場面と直結している課題でもあるのです。

 

 世界遺産はすごい、縄文遺跡はすごいと両手(もろて)を挙げて応援したいところですが、かたや考古学が直面しているこのような問題もあるのです。しかし考え方を少し変えると、縄文の遺跡であっても、新しい時代の遺跡であっても、それを「文化資源」「地域資源」として活用することができることに気付きます。古いものだけではなく、新しい時代のものも取り扱っているのが現代の考古学なのです。

 

講義風景

 

縄文文化の多様性

 

 氷河期が終わり地球全体が暖かくなると、各地で食料生産、つまり農耕と牧畜が始まります。食料生産の前提は定住です。それ以前は、定住ではなく移動生活でした。しかし縄文文化は定住だけではなく、季節による移動や数年毎の移動などが、状況に応じて適宜行われていました。また、狩猟、漁労、採集を中心として一部に栽培を組み込んでおり、一つの食料にだけ頼るのではなく、いろいろな食料源を開発していました。この点もユニークです。仮にある食料源が不作であっても、他の食料で危機をのり越えられるような生活様式だったのです。


 世界史の常識では狩猟・漁労は移動生活であり、農耕・牧畜が始まると定住生活になると言われています。しかし、縄文文化の竪穴住居は一年を通して住める施設であり、定住をする狩猟採集民という非常にユニークな生活のあり方を示している点が注目されています。


 このような事例は従来のヨーロッパ中心の人類史の中ではあまり出てきません。そのため縄文文化はかつて例外的であると言われていましたが、戦後、縄文文化の研究が進むにつれて、これまで考えられていたモデルとは違う人類史もあるという認識が広まるきっかけになりました。これは縄文を世界遺産の候補とする際に、非常に大きなセールスポイントになりました。

 

現代社会と縄文文化

 

 世界遺産に登録されたこともあり、縄文文化は今非常に人気で注目されています。最近は政府や大学、企業では「SDGs(持続可能な開発目標)」の実現に一所懸命になっています。さらに「エコな暮らし」、「自然との共生」も現代社会を理解する一つのキーワードとなっています。そして、縄文文化がSDGs、エコな社会を実現しているということで最近とても注目されているのです。


 しかし1980年代初頭までは、縄文文化は「持続可能」ではなく「停滞」した社会・文化として、また「エコ」ではなく「野蛮・野生」であるといったマイナスなイメージで語られていました。現在は各自治体に埋蔵文化財に関する部署があり、新たな発見も増え、縄文文化に対する評価が大きく変わってきました。

 

世界遺産の成り立ち

 

 世界遺産とは人類共有の、普遍的な価値を有する物件を指します。第2次世界大戦が終わり、戦火で疲弊した文化財や歴史的建造物を保護しようという流れで1964年に「ヴェニス憲章(記念物と遺跡の保存と修復に関する国際憲章)」が採択されました。1965年には、ユネスコの中にイコモス(国際記念物遺跡会議)が設立。そしてイコモスで1972年に世界遺産条約が締結されます。


 世界遺産に推薦される際に重要視されるのが、完全性(インテグリティ)と真正性(オーセンティシティ)、つまり本物らしさということです。ヨーロッパの歴史的建造物は石造のものが多いため、修復するには余分なものや新しいものを入れずに建築当時の素材で積み直しており、本物らしさがあると認識されていました。


 日本は1992年に世界遺産条約を批准しました。翌年1993年に初めて、世界遺産が4件登録されました。文化遺産の法隆寺と姫路城、自然遺産の屋久島、白神山地です。ここで問題が起こりました。日本の法隆寺などは世界遺産たりうる価値があるのかという疑義が出されたのです。


 もともと日本の木造建築は世界で一番古いと言われています。各時代に行われた修復は、一旦解体し、腐った部位を削り取り、その時代の木で補修して、また元通りに組み上げるというもので、これを千年を超える長さで行っていました。つまり、建築当時の素材ではない新しい時期の素材が入っていることになります。そこで、ヨーロッパの石の文化のような真正性が保てないのではないかという議論になったのです。しかし日本側は、組み替えや解体は日本の風土、木の文化を伝統として引き継いでいる一つの在り方であるということを主張し、それが認められました。実際に解体し、腐った部材を取り替える。その全ての文化を尊重することこそ、その価値を正しく評価できるということが認められたのです。これは日本だけではなく、同じような環境のアジアの国々にとっても朗報でした。北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録されたことは、これと同じような重要な意義があると思われます。

 

縄文遺跡群が世界遺産へ

 

 北海道・北東北の縄文遺跡群は2021年7月に正式に登録されました。2006年より文化庁は各自治体から世界遺産の候補を公募するようになりました。そこで青森県は三内丸山遺跡を含む縄文遺跡群を、秋田県は大湯遺跡のストーンサークルをもって名乗りをあげました。その後縄文文化をテーマに自治体を超えた結びつきを行おうという形が出来上がり、2007年に北海道と岩手県を加えた4道県で、まとまって世界遺産に立候補することになりました。


 当初は構成資産15遺跡で出発します。最終的には17遺跡となりました。2012年に千歳市のキウス周堤墓群、函館市の垣ノ島遺跡、青森県の大森勝山遺跡の3遺跡が増え、18遺跡になりました。その後2015年に森町の鷲ノ木遺跡、青森県の長七谷地貝塚が外され16遺跡となりました。さらに、洞爺湖町の入江・高砂貝塚を、それぞれ縄文後期の入江貝塚(紀元前1800年ごろ)と縄文晩期の高砂貝塚(紀元前1000年ごろ)とに分離して、最終的には17遺跡になりました。


 世界遺産の登録数は非常に多くなり、現在では1000件を超えています。そのため新たに採択する数を減らし、2020年からは1年に1国、自然遺産か文化遺産のどちらか1件だけの登録になりました。2020年には奄美・沖縄の自然遺産が日本からイコモスに推薦されました。しかし昨年、コロナの関係でイコモスの会議が開かれませんでした。そして今年になり、2年分ということで前年の奄美・沖縄に加えて北海道・北東北の縄文遺跡群が文化遺産として推薦・登録されました。

 

世界遺産を構成する北海道の縄文遺跡群

 

 いよいよ北海道・北東北の縄文遺跡を巡る旅をはじめましょう(以下、『北海道・北東北の縄文遺跡群』の公式のホームページ(https://jomon-japan.jp/learn/jomon-prehistoric-sites-in-northern-japan)を利用して、画面の操作方法を説明しながら、北海道の各構成資産(遺跡)の説明が行われました。紙数の都合で、各説明の詳細は割愛しますが、各遺跡の見どころのみを簡単に紹介しておきます)。

 

1.垣ノ島遺跡(函館市)
 縄文早期を代表する遺産として登録されていますが、注目は何と言っても最大径190mに及ぶ盛り土遺構です。縄文早期から続く定住生活を通じて徐々に形成されて、縄文後期にコの字形の造形が完成します。集団の伝統性を示す、統合の象徴としてのモニュメントです。

 

垣ノ島遺跡 盛土遺構 出典:JOMON ARCHIVES

 

2.大船遺跡(函館市)
 深さ2mを超える掘り込みのある縄文中期の竪穴住居址が発見されました。噴火湾に面した遺跡ではオットセイなどの海獣類が盛んに捕獲されました。クジラの脊椎骨が出土していますが、まだ捕鯨の技術は無く、寄り鯨のものでしょう。

 

大船遺跡 大型竪穴建物跡 出典:JOMON ARCHIVES2

 

3.鷲ノ木遺跡(森町)
 縄文後期のストーンサークルです。その真下を高速道路のトンネルが貫通していることを理由に、推薦に際して構成資産から外され、「関連資産」となりました。しかし、現代の最高の土木技術を駆使して造られた高速道路と史跡としてのストーンサークルとが共存する姿こそは、現代に生きる私たちが選択した決意の表れであり、今後の取り扱われ方が注目されます。エジプトのアブシンベル神殿(ヌビア遺跡)は、ナイル川のアスワン・ハイ・ダムの建設によって水没する危機に瀕しましたが、世界中からの支援を受け、移築して保存することに成功しました。これが一つのきっかけとなって現在の世界遺産という制度が生まれました。

 

鷲ノ木遺跡 出典:JOMON ARCHIVES

 

4.入江・高砂遺跡(洞爺湖町)
 入江貝塚では、身体に強い障害がありながらも成人になるまで介護を受け成長した人の埋葬人骨が発見されました。現在に通じる介護の問題を考えさせてくれる遺跡としても注目されています。サメの椎骨を利用した装飾品が多く発見されています。

 

入江貝塚 釣針 出典:JOMON ARCHIVES

 

5.キウス周堤墓群(千歳市)
 ドーナツ状の堤の内側にたくさんのお墓が設けられた墓地遺構(周堤墓)が群在する縄文後期の墓地遺跡です。最大級のものは直径80mにもおよびます。想像を絶する縄文人たちの土木技術を目の当たりにする驚きと、縄文人の聖地に足を踏み入れた静謐感を堪能してください。

 

地域と共に歩む遺跡

 埋蔵文化財や遺跡は開発工事にとって障害となることもありますが、各自治体の埋蔵文化財行政に関わる方々は、遺跡がどこにあるのかを周知する日々の活動によって、工事に伴う突発的な緊急発掘調査が発生するのをできるだけ避けるように努めています。どんな遺跡がどこにあるのかが予めわかっていれば、いろいろな対処法を考えることができます。遺跡を文化資源、地域資源として活用するのです。


 遺跡を新たにつくることはできません。ある所にしかないのです。その点では天然資源と似ています。しかし、文化資源としての遺跡は、石油や天然ガスなどのエネルギー資源とは異なり、使用しても減ることはなく、むしろ活用するほどにその価値がどんどん増していきます。例えば、世界遺産に登録されると遠くから多くの人たちが見学のために訪れて来ます。確かに一定の経済効果も期待できますが、そこに暮らす人たちは、自分たちはそのような素晴らしい場所で暮らしているのだといった実感とともに、ホストとして来訪者を迎え入れることで、自らの土地への愛着を強め、またそこで日々暮らす人たちの間に強い連帯感が生まれてきます。そのことは、一時的な経済効果にも勝り、とても大切なことです。


 このことは、本年9月に亡くなられた経済評論家の内橋克人さんが提唱されていた、FEC自給圏構想にもつながるのではないでしょうか。FEC自給圏とは、Fのフード、Eのエネルギー、Cのケア、これらを地域で自給し、人々の連帯と参加と共生によって地域が自立するといった新しい経済のしくみです。FEC自給圏に文化資源、地域資源としての遺跡を加えて活用するという構想で、遺跡に向かい合う。遺跡の存在が分からずに、開発工事の際に発見され、緊急発掘調査を行うといっただけの対応ではなくて、遺跡を文化資源、地域資源として保護・活用することで、自分たちが暮らす地域をより良いものとしてゆく、より暮らしやすいところにしてゆく、そんな発想が必要なのではないでしょうか。


(2021年10月5日「第9期経営者大学パートⅢ『北海道論』コース」第1講より 文責 山田未登)

 

■講師プロフィール
1959年 埼玉県生まれ
明治大学大学院博士課程修了
専門は日本考古学(縄文文化研究)
日本学術振興会特別研究員、国立歴史民俗博物館外来研究員を経て、1997年から北海道大学着任。
現在、北海道大学大学院文学研究院教授・北海道大学埋蔵文化財調査センター長
著書:『縄文のマツリと暮らし』(岩波書店)、『縄文時代の考古学』全12巻(共編著、同成社)など

https://www.let.hokudai.ac.jp/staff/kosugi-yasushi