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【69号特集3】『学習権宣言』の今日的意義  ―これからの時代に必要な学習とは何か―

2021年01月15日

『学習権宣言』の今日的意義
―これからの時代に必要な学習とは何か―

 

北海道大学大学院教育学研究院 教授 宮﨑 隆志(札幌)

 

 1985年、『ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)』から『学習権宣言』が出されました。我々が今の時代を生きるにあたり必要な学習の意義について、『学習権宣言』の文言を紐解き、『学習権宣言』の精神が生かされた事例などを通じ学びます。

 

 

 

 


 

 これまで日本政府は『学習権宣言』(128頁参照)をあまり大きく扱わず、政策的にも強調してきませんでした。その理由は、『学習権宣言』の冒頭に記されている「読み書きの権利」はすでに日本では必要がないと考えたからです。日本だけでなく、海外先進国といわれる国も同様です。しかし、『学習権宣言』はもっと根本的な振り返りを私たちに要請していることを理解しなければいけません。そこでユネスコはなぜ、1985年に『学習権宣言』を出したのかという背景から説明します。

 

『世界人権宣言』と『学習権宣言』

 

 1948年に第3回国際連合総会で『世界人権宣言』が採択されました。これは戦争の反省を踏まえて「すべての人々の生きる権利を平等に尊重しなければならない」という当たり前のことを改めて宣言したものです。


 『世界人権宣言』が出た後の1950年代から60年代は、アフリカなどの植民地の独立が進みました。しかし、政治的独立にも関わらず経済構造などで旧宗主国やその他先進国に従属しなければならない『新植民地主義』が続き、先進国による富の独占と、対極にある貧困の格差が世界的に広がりました。アジアやアフリカ、南アメリカでは5人に一人が飢餓状態で毎年1400万人が死亡、45%が初等教育未終了、妊娠・出産で毎年50万人の女性が死亡する(ユニセフ『世界子ども白書』1991)という状況が生まれたのです。人々が安心して、穏やかに暮らせる社会をつくらなければならないと宣言したにも関わらず、現実はそうはならなかったのです。


 そうした状況を乗り越えるために『世界人権宣言』では入れられていなかった「学習権」にユネスコは着目しました。そのことが冒頭の「学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている」という一文に表れています。


 一方で1980年代は「新自由主義」が台頭した時代でした。新自由主義の考え方の根っこにあるのは、市場原理主義と自己責任論です。端的に言うと、すべての人が企業経営者のように自己判断と責任をとれということです。しかし、経営者のようにふるまえる人はどれだけいるでしょうか。経営者になれない人は負け組と呼ばれ、格差は拡大し、人間らしく生きることができない状況が社会的に広がったのです。

 

あらゆる事柄を学び直す時代

 

 現代は、これまでの正解や模範(モデル)が通用しない時代で、ニートやひきこもりの若者増など若者問題が世界的に深刻になっています。今の若者の親世代は、人生設計の見通しが立つ時代に就職をしています。しかし社会の仕組みが変わり、前の世代の経験は今の若者のモデルにならず、先が見えない境遇に置かれたわけです。いわば第三世界の危機から世界全体の危機へ深化する中で、これからどうやって生きていけばよいのか、どんな社会になるのか、一人ひとりがあらゆる事柄について考え、学び直さなければいけない、そういう局面になりました。


 こうした背景を踏まえ、学習がどうして重要なのか、どのような学習が求められるのか、「学習権」とは何なのかを問い直さなければ、「学習権」の意味は理解できません。改めて、『学習権宣言』における学習とは何なのかを理解する必要があります。

 

基本は「読み書きの権利」

 

 「学習権」は幅が広く「読み書きの権利」から「個人的・集団的力量を発達させる権利」まであります。ここでは、冒頭の「読み書きの権利」から学習について考えていきます。読み書きの「読む」ですが、我々が生きている世の中は文字などの記号で溢れています。しかし外国へ行くと、文字も標識も読み取れません。つまり、記号を正しく読み取ることができないと、この世界と関わることはできません。


 「書く」ことは表現の権利、意見表明の自由です。自分のさまざまな思いを言葉に置き換えてみることで、自分で自分がわかるようになります。つまり「書く」、表現するというのは、自分を理解していくために必要不可欠な要素です。


 表現ができないということは自分をつくる機会がなくなることを意味します。表現の自由はまさに基本的人権、自分であるための絶対的な条件です。したがって「読み書きの権利」は人間が人間らしく生きるいちばん基本になる権利なのです。

 

 

学習を通じて世界と対話する

 

 「問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利」とは、質問・分析・想像・創造するプロセスです。違和感を覚えた時疑問を持ち、どうすればいいのか考え、実際に行動します。世界についての課題意識をもち行動することは、なりゆきまかせでなく自らが歴史をつくるということにつながっていきます。


 「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」。私にとってこの世界がどのようなものなのかを読み取ることは、この世界と関わる自分のあり方を読み取ることになります。


 自分の人生は自分で決めるのが近代社会の大前提ですが、正確に言うと自分たちの未来は自分たちでつくる、それが人間らしい生き方であり『世界人権宣言』が求めた新しい世界像です。そうでなければ、もう一度暴力が支配し、力ずくで物事を解決する状況が生まれ、格差が拡大し、人と人が対等な関係を築くことができなくなります。


 自ら生み出しつくり出していく側に皆が立てる状況にするには、学習が不可欠です。この学習は学校の勉強とは違い、自分たちの世界をつくり上げ、読み解き、自分たちの言葉を獲得する学習になるのです。

 

人間らしく生きていくために

 

 「あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である」。学習にはいろいろタイプがありますが、新しいものを生み出す学習は決して一人ではできません。


 参考書や教科書を丸暗記するような学習は、一人でできます。しかし、つくり出していく学習は経験を持った人の話を参考にし、お互いの経験を共有しながらアイディアを一緒につくり上げていき、話し合い、より深めていくことが必要なのです。


 「学習権」とは人間らしく生きていくために何かをつくり出して生きていく、自分たちが人間らしく生きていくための環境、世界をつくりながら生きていくための基本的な権利なのです。

 

学習の3つのタイプ

 

 つくり出す学習とはどのようなものでしょうか。学習は3つのタイプに分けられます。


 1つ目は『操作的学習』です。学習者に対象と道具が与えられ、何かつくれという課題が出されたとします。学習者は与えられた課題を達成するために道具の操作に習熟する、それが『操作的学習』です。求められるのは正確さや速さの向上です。


 2つ目は『行為的学習』です。これは「探求的学習」と言い換えることができます。学習者には課題は与えられますが、道具は定まっていない。アイディアを出し合い、道具を工夫しつくり出すなど探求することが必要になります。『操作的学習』に比べると新しいものをつくり出す学習に近づいていますが、誰かに課題を与えられている状態です。より人間らしく生きていく学習、創造的に生きるための学習としては少し物足りないと言えます。


 そこで3つ目に『拡張的学習』が出てきます。「創造的学習」と読み替えることもできます。学習者は対象も道具も自由に設定できます。対象そのものを転換することができるので、それを実現するための道具もかわります。


 『行為的学習』のように与えられた枠組みの中で新しいことを考えるのは、実際には新しいことではありません。今までなかった新しいものを生み出すことが本当の意味での学習なのです。

 

創造的学習で社会的企業に変革した事例(和歌山県「麦の郷」)

 

 「創造的学習」が生かされた具体的な事例を紹介します。和歌山市に一麦《いちばく》会という社会福祉法人(通称「麦の郷」)があります。1977年に養護学校卒業生の就労の場として開設された共同作業所から、事業高5億円、職員数200名、約20の施設・事業を行う社会的企業へと変革した団体です。


 「麦の郷」は「ほっとけやん」(和歌山弁で「ほっとけない」)をキーワードに当事者のニーズに向き合い、地域コミュニティの輪を広げながら活動を展開してきました。地域の障がい者やホームレスなど、働きたくても働く場所が少ない人のためのクリーニング事業を立ち上げたり、地元の農産物でせんべいやゼリーなどの加工品をつくり、運営する直売所で販売する6次産業化にも取り組んでいます。「麦の郷」は障がい者の経済的自立のみならず、地域経済の活性化を視野に入れています。


 「麦の郷」はなぜ社会的企業となったのでしょうか。そこにはスタッフの痛切な自己批判がありました。

 

今までの枠組みを取り払う

 

 かつて共同作業所は、障がい者の生存権を守るための砦と言われていました。生存権は憲法25条で保障されていますが、障がいがあるだけで働くこともできない。その生存権を守る砦・働く場が共同作業所です。しかし、ある障がい者が交通事故で死亡したとき、逸失利益(本来得られたはずの収入)が裁判で算定されました。算定根拠となったのは共同作業所の工賃で、健常者の3分の1から4分の1でした。


 「麦の郷」のスタッフはこのニュースを知り、生存権を守る砦だと思っていた自分たちの事業所のあり方が、障がい者の命の価値を切り下げる根拠となっていたことに気づき、がく然とします。障がい者の味方だと思っていた自分たちが実は加害者になっているのでは、という深刻なジレンマに陥りました。このジレンマに向き合い、どうすれば良いのかと考えました。そして、障がい者の人数で補助金を受けるという今までの福祉の発想の枠組みを取り払い、一般市場で勝負すると決意したのです。


 その取り組みの一つにみかんジュースがあります。今まではバザーでクッキーなどを「障がい者のつくったクッキーですので買ってください」と販売していました。一時的な売り上げにはなりますが、継続したものにはなりません。そして障がい者のサポートという意味合いが強く、購入者と対等な関係になっていませんでした。新たに販売したみかんジュースは、和歌山県の美味しいB級品のみかんを原料に使用し、一般のスーパーで販売しました。スーパーで販売したところ、お客さんがその美味しさにびっくりするのです。そしてこのジュースをつくっているのが障がい者だったのかと、また驚く結果となりました。


 「麦の郷」が今までになかった事業体を地域に生み出した原点は、今まで自分たちは被害者の味方でいたけれど、実は加害者でいた、という自己批判だったのです。

 

創造的な組織・教育システム

 

 震災や新型コロナウイルス感染症といった事態に直面したとき、指揮命令系統は従来のような縦型組織ではなく分散型、水平型の組織が有効といわれます。地位や肩書は関係なく、創造的な学習を行い、課題自体を皆でつくり替えた「麦の郷」は、まさにこうした組織といえます。さまざまな作業所があり分散し、各作業所の自由度が高く、次から次へとアイディアが出てくるのです。


 このような組織の在り方を「ユルユル・コミュニティ」と言います。人を拘束しない「ユルユル・コミュニティ」を意図してつくり出すことによって創造性、新しいものを生み出す力を内部に蓄えていくのです。


 今はまさに転換期のまっ只中です。特に新型コロナの影響でこれからの世の中はさらに見通せなくなりました。あらゆる人々が問い続け、探求し続け、新しい世界を創造することが必要な局面になっています。そのためには時代にふさわしい教育システム、学習を支援するシステムをつくり上げていかなければいけない。その時に学習権とはどういうものかが問われるのです。


 『学習権宣言』が意図していた学習とは、皆で新しいものをつくり出す力を蓄える、そういう学習を示しているのです。

 

ユネスコ 学習権宣言(抜粋)


1985年3月29日 第4回ユネスコ国際成人教育会議

 

 学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。


 学習権とは、
  読み書きの権利であり、
  問い続け、深く考える権利であり、
  想像し、創造する権利であり、
  自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
  個人的・集団的力量を発達させる権利である。


 成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。


 学習権は未来のためにとっておかれる文化的ぜいたく品ではない。
 それは、生き残るという問題が解決されてから生じる権利ではない。
 それは基礎的な欲求が満たされたあとに行使されるようなものではない。
 学習権は、人間の存在にとって不可欠な手段である。


 もし、世界の人々が、食糧の生産やその他の基本的な人間の欲求が満たされることを望むならば、世界の人々は学習権をもたなければならない。
 もし、女性も男性も、より健康な生活を営もうとするなら、彼らは学習権をもたなければならない。
 もし、わたしたちが戦争を避けようとするなら、平和に生きることを学び、お互いに理解し合うことを学ばねばならない。


 “学習”こそはキーワードである。
 学習権なくしては、人間的発達はあり得ない。
 学習権なくして、農業や工業の躍進も地域の健康の増進もなく、そして、さらに学習条件の改善もないであろう。
 この権利なしには、都市や農村で働く人たちの生活水準の向上もないであろう。
 端的にいえば、このように学習権を理解することは、今日の人類にとって決定的に重要な諸問題を解決するために、わたしたちがなしうる最善の貢献の一つなのである。


 しかし、学習権はたんなる経済発展の手段ではない。それは基本的権利の一つとしてとらえられなければならない。学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体に変えていくものである。


 それは基本的人権の一つであり、その正当性は普遍的である。学習権は、人類の一部のものに限定されてはならない。すなわち、男性や工業国や有産階級や、学校教育を受けられる幸運な若者たちだけの、排他的特権であってはならない。本パリ会議は、すべての国に対し、この権利を具体化し、すべての人々が効果的にそれを行使するのに必要な条件をつくるように要望する。


(以下 略)

 

■講師プロフィール
北海道大学大学院教育学研究院・教授。専門は社会教育学。NPO法人コミュニティワーク研究実践センター・理事、NPO法人学童保育・地域子育てサポートセンター・理事。協同総合研究所・理事。近著(いずれも分担執筆)は『地域学習の創造』(東京大学出版会)、『社会教育と福祉と地域づくりをつなぐ』(大学教育出版)、『街に出る劇場』(新曜社)など。


(2020年10月23日「第68期同友会大学第26講」より 文責 山田未登)