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【67号 特集2】事業承継  ー社員と共に乗り越えられない試練はない!ー

2019年01月01日

先代社長である夫が2003年に急逝。「社員の働く場(生活)と、お客様の信用(自社の存在価値)を守るために、会社は絶対になくさない」「入社2年目の息子に経営者としての気構えと覚悟が身につくまで、自分が社長として会社を守る」と決意、小柴氏が社長に就任します。2006年に長男に社長を引き継ぎ、次代に向けた企業づくりが進んでいます。

 


 

㈱コージン 会長 小柴 順子(富山)

 



 当社は、富山県上市町で「プラスチックインサート成形品」の製造を手がけている会社です。インサート成形とは、①プラスチックを溶かし、②金属の部品を入れて型に流し、冷やし固め、③型から出すという工程で、簡単に言えば、アーモンドチョコレートの作り方とそっくりです。


 1974年に夫の父がプラスチック成形工場を買い取り、宏仁樹脂工業㈱として創業しました。当時はファスナー工場も手がけていましたが、内製化、自動化の影響を受けて仕事が減っていた矢先、銀行の勧めで売りに出ていた現在のプラスチック工場を引き受けることにしたのです。


マイナスからのスタート


 しかし、債務も含めて引き受けたため、苦しい状況が続きます。そこで夫は大手企業に飛び込み営業を行い、付加価値の高いベルトコンベヤーでの組み立て作業などを受注してきました。そのかいあって仕事は少しずつ増えていったのですが、今度は人手が足りなくなりました。親戚や近隣の方々に「短時間でもいいから」と声をかけ、最大で85人まで社員が増えました。しかし、工場購入時点での債務把握の甘さから資金繰りの厳しさが続き、1984年10月、ついに和議申請に至りました。


 債権者の方には債権の4割をカットしてもらい、「残りの6割を10年で返済するので、何とか仕事をさせてほしい」と取引先にお願いして歩きました。「安心して仕事を頼めない」と取り引きを打ち切られることもある中、「頑張って仕事で返してほしい」と言葉をかけてくださるお客様もいました。


 当時は夫の父が社長で銀行関係や財務を見ており、専務だった夫は営業と工場を担当していたのですが、会社の方針を巡っていつも言い争っていました。「安い仕事ばかり」と義父が言えば、「金の使い方が悪い」と夫が言い返すというありさま。もっとお互いがしっかり話し合い信頼し合っていれば、こんなことにはならなかったのでは、と思うこともしばしばでした。


 和議申請に伴い、多くの社員を解雇することになります。夫は、社員を引き受けてくれるよう様々な会社にお願いして回り、「いつか戻ってきてもらえるよう頑張るから」と言って社員たちを送り出しました。本当につらい場面でした。この経験から、①人の心の温かさ、②どんな状況でも絶対にあきらめない、③すべて前向きにとらえるという思いが深く私の心に刻まれました。


順調な挽回からどん底へ


 この年の12月、夫が代表取締役に就任しました。「もう2度とあんな思いはしたくない」。そう思い、パートのような形で仕事を手伝っていた私が総務と経理を担当することになり、残ってくれた12名の社員と、がむしゃらに働きました。


 1991年3月には社名を㈱コージンに変更しました。創業時の「宏仁樹脂工業」から宏(広く―たくさん)、仁(思いやりを持った人)、つまり「広くたくさんの思いやりを持った人たちが集まる会社にしたい」という創業者の思いを込めた名前にしたのです。


 3年目ぐらいから少しずつ仕事が増え始め、徐々に工場が手狭になりはじめました。プラスチック成形は熱を出すため、工場内の温度がものすごく高くなります。また粉じんや臭いもあり、作業環境はとても厳しい状況です。夫は懸命に働いている社員のために環境を良くしたいと考え、「俺は絶対に新しい工場を建てる。それもピンク色の工場を建てるぞ!」と意気込み、本社工場を新築することができました。


 当時はインドネシアから実習生を受け入れていました。ある時インドネシアでの研修視察があり、夫と2人で参加しました。現地では、日本で実習した責任者の方が日本語で工場内などを案内してくれました。日本で実習した方々が現場のリーダーとなって指示する姿も見かけました。帰国後、夫は「インドネシアにも工場を建てる」と言い出し、その計画も進み始めました。


 実は、夫は和議申請のころから糖尿病を患い、治療をしていました。自分の体のこともあったのか、今後の会社のことを心配し、幹部社員と月に1度、経理の先生を招くなどして、勉強会を始めていました。


 そんな矢先、夫が出張先で急逝したのです。2003年6月の朝、「行ってきます」と出かけたまま、2度と帰らぬ人になってしまったのです。本当に信じられない思いでした。その時、かつて社員を解雇したあのつらい思い出がよみがえってきました。私は「会社は絶対につぶさない、社員と共に会社を守るんだ!」と強く決心しました。社員には、「私が社長になるので一緒にやってほしい」とお願いしました。夫が社員の育成を進めてくれていたおかげで、皆納得してくれ、2003年6月、私は3代目代表取締役に就任しました。


夫が遺してくれた「財産」は…


 夫が社長の時は、夫が何か言うとそれが全部通ってしまうような会社でしたので、就任後は新たな組織づくりに取り組み始めました。


 部長職の人たちには専務や常務をお願いし、入社2年目の息子を後継者として育成するため、役員にしたいと相談しました。反対する方もいましたが、社外取締役だった取引先の社長が「この一大事にこそ、後継者を役員にして育てるべきでは」と言ってくださり、息子を取締役の末席に座らせることにしました。またその時に、息子と共に次を担う若手も入れておくべきだと考え、「部長代理」という役職を設けました。お客様・仕入れ先・協力会社との関係も良好でした。頼りになる社員と外部からの信用は、夫が私に遺してくれた大きな「財産」です。


 インドネシアの工場建設も進んでいました。現地に行く幹部に改めて思いを確認したところ、「先代との約束を果たすためにも、帰国したインドネシアの実習生たちと一緒に仕事をしたい」と言ってくれました。当初は工場長として赴任の予定でしたが、出資して株も持ってもらい、社長として現地に行ってもらうことになりました。そして2004年1月、工場の稼働となりました。


社員と共にリーマンショックを
乗り越えて


 夫が亡くなった後、仕事の環境は大きく変わりました。私は自他共に№2と認められていると思っていましたが、実際に社長になると、№1と№2の違いを痛切に感じるようになりました。経営者として真剣に学び、社員を育てていかなければならないと考えていた時、知り合いの経営者の方から同友会を紹介されました。私は同友会の「3つの目的」に共感し、すぐに入会させていただきました。


 入会後間もなく、毎年富山で開かれている第8回社長研修会に参加しました。参加者の皆さんが、中同協の赤石義博会長(当時)の話を受けて自社の課題を熱心に語り合う姿に驚くとともに、大変なのは自分だけではないのだと、大きな勇気と力をいただきました。


 社長就任から3年、私は社員と共に必死に仕事に取り組んでいきました。2006年には息子に社長職を譲り、私は会長に就任しました。その時も、「まだ早い、経験不足なのでは」との反対意見があったのですが、これからは若い人の時代だと説得し、事業承継を実行しました。


 2008年、試練の時がやってきます。リーマンショックです。当社は分散していた工場を一体化するために、新工場を建設したばかりでした。一時、8割ぐらいまで売り上げが減り、下りのジェットコースターに乗ったような売上激減でした。「これはただごとではない。でもそう長くは続かないはず」と冷静に考え、社員と共に会社存続のためにできることはすべてやろうと考えました。


 仕事が減った上、その仕事もワークシェアリングしていたので、当時、時間はたっぷりありました。そこで「この時間を学ぶ機会にしよう」と、息子(社長)がかつて5Sの勉強会でお会いした大阪の経営者の工場へ研修に行くことにしました。参加したい人を募集すると、80名のほとんどの社員が手を挙げてくれました。急きょ、社長班と会長班に分け、時期をずらして勉強会に行くことになりました。


 やはり、見ると聞くとでは大違いです。参加した社員は皆、カルチャーショックと良い刺激を受けて帰ってきました。せっかく建てた新工場をいつまでもきれいなままで維持したい。仕事がないなら、何か全員でやれることはないか。その結果、「日本で一番キレイなプラスチックの成形工場になろう」と、自分たちなりに工場の中での5S活動を始めるようになりました。


売り上げ大幅回復


 2010年5月、急に仕事量が増え始め、しかもリーマンショック前以上の受注になっていきました。つくづく、新工場を建てておいてよかったと思いました。インドネシアの工場は一時帰休するなどしていましたが、マレーシアの工場から直接取り引き依頼があるなど、先の見通しも出てきました。


 また、リーマンショックを受けて仕事の幅を広げる必要性を痛感したため、新しい分野への挑戦を進めました。この年には、日産リーフ(日本初の電気自動車)の基幹部品の納入が決まりました。日産のある開発チームと一緒に共同開発を進めていたのですが、その開発チームの提案が採用となり、当社に発注が来たのです。「ティアワン」という一次下請けとしての受注です。私も早速、自社製部品が入っているリーフを購入しましたが、個人でEV車を買ったのは、県内では私が初めてだとディーラーさんが言っていました。しかし、私たち中小企業では、モデルチェンジにより生産能力やコスト要求についていけなくなり、他社に代わる厳しさも味わいました。


 現在、新商品開発は介護や一般住宅向けといった、これまでとは違う分野にも広がっています。介護の分野では介護実習生向けの教材をつくっていますが、介護用マネキンは高額なため、何体も用意するにはかなりお金がかかります。しかし、当社で必要な部分をプラスチックや樹脂、または金属との結合などで比較的安価につくることにより、多くの実習生が対応できるようになりました。その製品は、「かん助」(浣腸演習教材)や「てきるん」(摘便演習教材)として展示会にも出展しています。


 また、私があるパネルディスカッションのパネリストに招かれたとき、同じパネリストだった建築業の社長さんから、新しい仕事づくりとして鳥害防止の製品取りつけ業務もしているという話を聞きました。早速、カーポートに取りつけてもらい、それを見た当社の社長が「当社の設備と技術で、合理化した忌避剤入り鳥よけケースができ、取りつけ時間短縮もできる」と話したことからトントン拍子に話が進み、「バイバード」という製品を当社でつくらせていただくことにもなりました。


 5S活動が着実に根づいていく中で2013年、新たにQCサークル活動への取り組みも始まりました。QCサークルでは、実際に自分たちの周りで起こっている現場の問題についてチーム別に改善策を出し合うのですが、協力会社や取引先にも来ていただき、表彰をしています。その後、当社が所属している富山県機電工業会主催のQCサークルでも大会があるとの話を聞きました。当社からも参加したところ、多くの大手企業さんも出ている中で、当社が職場改善部門の最優秀賞と感動賞をダブル受賞することができました。これは大変嬉しく、大きな励みとなりました。


「信頼の残高を貯めていきたい」


 事業承継当初は、社長は社長の方針、部門は部門の方針と、うまく連動しないこともあったのですが、専門の先生を招いて社内研修を進めていくなかで、社内のコミュニケーションがよくなり、社長と部門の思いがつながるようになっていき、めざす方向が一致していきました。


 また、部長や課長がいつまでもプレイングマネージャーとして現場に入っていては、社員は成長しません。そこで今後の当社を見据え、部下の育成に取り組んでもらうため、部課長が講師となった次の世代のリーダー研修を行っています。私も話をさせていただいていますが、若い人たちは先代社長のことは当然知りません。ですから私は、会社の歴史、その時々の先輩たちの頑張りのおかげで今日があるとお話させていただいています。今年の新入社員は、「当社は先輩、地域の皆様に本当に支えられてきたのだなと感じました。私たちも先代や社員の思いを伝えていける人になり、周囲の方々に感謝する信頼の残高をどんどん貯めていきたいと思います」という感想を書いてくれました。


 当社は、私から息子へ社長を譲る事業承継をしたものの、次世代の社員づくりはまだまだ始まったばかりです。私は会長として一線から離れたところで客観的に会社を見ながら、社員とのコミュニケーションや社員教育に積極的に参加し、社長をサポートし、相談役として支えていきたいと考えています。


 社長には、社員と共にどんな困難にも今までのように乗り越えて行ってほしい。そのためには、社長も社員と共に学び、成長してほしい。社員の人生を守り、地域になくてはならない企業になってほしいと考えています。周りの人が笑顔で心豊かに暮らしていけるお手伝いをしていくことが、私の今の目標です。


(2018年3月22日「しりべし・小樽支部3月例会」より 文責 中上雅之)

 


 

■会社概要
設  立:1974年
資 本 金:8,350万円
従業員数:153名
事業内容:電気・機械器具部品製造業(プラスチックインサート成形品の製造、販売)