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【67号 特集2】縁に生かされて ー女性経営者としての半生とこれからー

2019年01月01日

5歳で商品を仕入れて売り歩いていた幼少期。15歳で家出したが、父親に実家に呼び戻され男性社会の建設業に放り込まれる。経営者である自分の役割は「社員を守ること」。一心不乱に経営し続けてきた半生とこれからを語る。

 


 

㈱大川 相談役㈱
丸大 大川組 代表取締役 大 川 久美子(小樽)

 



 当社は「型枠解体業」です。建物の基礎をつくるときに、ベニヤ板で枠を立てて鉄筋を入れ、液体のコンクリートを流し込み、固まったらその枠を外す。その枠を外すだけの専門業者です。


 もともとは、本州から移住した母方の祖父が浜頓別で商売を始め、鋳物会社で財を成し、その後樺太へ渡りました。やがて太平洋戦争が始まり、戦火は日に日に激しくなっていきました。母からは、爆弾の投下で前日に仕入れていた石炭が何日間も燃えていたこと、おぶっていた5歳上の姉が背中で亡くなっていることにも気づかず、逃げ続けたこと、その姉を、火葬では居場所が見つかってしまうため、やむなく土葬してきたことなどを聞いています。結局わが家は焼け出され、着のみ着のまま、船で小樽に引き揚げてきました。


体で覚えた商売の原点


 私は小樽に引き揚げ後、5人兄姉の末っ子として生まれました。姉2人はすでに戦争で亡くなっており、母は難病で体が弱く、3歳の頃には母に白湯を飲ませ、背中をさすることが私の日課でした。わが家はとても貧しかったので、5歳になると、豆腐や納豆を売り歩き、商売のまねごとをして生計を助けていました。算数を習わなくても、商売の感覚を感じはじめていたと思います。


 その頃、父が勤めていた会社が倒産し、給料がもらえなくなります。私は小学校に入学しましたが、米とぎ、水くみなど家事を済ませてから登校するため、遅刻ばかりしていました。父が独立して始めた型枠解体の仕事はなかなか軌道に乗らず、函館にいる母方の祖母に借金をしてしまいます。2、3年生になるとその借金を返すため、函館の祖母が経営する食堂の屋根裏部屋に母と二人で住み込み、放課後は皿洗いを手伝う毎日でした。


 4、5年生の頃小樽へ戻り、ベビーシッターのアルバイトを始めました。3歳の子と遊んでおやつとお給料がもらえるのですから、楽しい仕事でした。この頃から家を出たい、小樽を出たいという思いが強くなり、中学校3年間でアルバイト代を一所懸命貯め、卒業後に家出を決行しました。父に内緒で、母と姉が段取りをしてくれました。あとで知ったのですが、私が出発する日、父はこっそり駅の柱の陰から見送ってくれていたそうです。


 家出後は、大阪の食事付きの寮がある定時制高校に入学し、4年間、ゴルフ場でキャディーや売店の店員として働きました。一方、バトントワリングの部活に入り、大阪万博で演技するためのオーディションに合格し、「太陽の塔」の下で踊ったこともあります。大きな携帯電話で母に電話し、「電話に線がないんだよ!」と言いながら、時代の大きなうねりの中にいることを肌で感じていました。


父の意を継ぎ(株)大川へ


 19歳の時、突然、父から会社へ戻るよう言われました。病弱な母が心配でしたので、一度小樽へ戻ることにしました。父は、1年前に兄を会社に呼び戻し、社長にしていたにもかかわらず、なぜか私に会社の実印を持たせました。そして、現場や経理などあらゆるところに連れて行きました。私は必死で本を読み、独学で経営を学びました。一瞬一瞬が勉強でした。従業員の年末調整をしたところ、納税の習慣がなかった従業員から「税金を引きやがって!」と怒鳴られたこともあります。


 24歳で結婚しましたが、バブルが始まった頃でしたので仕事は山ほどあり、仕事に明け暮れる毎日でした。子どもをおぶいながら職人さんの弁当をつくり、不眠不休で働き続けた結果、腎臓を悪くし入院しました。それでも父から呼び出され、病院から通勤するありさまでした。


 ある日とうとう疲れ果て、「もう限界だ」と母に助けを求めたところ、「あなたの努力が足りない」と言われてしまいました。私の状況を救ってくれるのは母しかいないと思っていたのでショックを受け、その瞬間から何も考えられなくなり、1週間ほど旅に出ました。今思えば、死に場所を探していたように思います。気がつくと、自殺の名所の断崖に立っていました。そのときふと、「おかあさん!」と私を呼ぶ子どもの声が聞こえた気がして、「しっかりしなくちゃ」と思い直し、家に戻りました。


 不眠不休の苦しみから逃れたい一心で、恐る恐る父にコンピューターの導入を打診したところ、思いがけず許可が下りたので、自社独自のソフトをつくってもらいました。当時1000万円程かかりましたが、そのソフトは現在も使っています。アイディアは苦しみの中から出てくるものなのだと思いました。


最大の苦難


 私が43歳の時に、父が亡くなりました。兄妹3人で話し合い、大川という会社がなくならなければ従業員、家族の皆が生きていけると考え、母も姉も相続を放棄し、社長である兄一人に相続をさせ、大川というブランドを守ることにしました。


 悪いことは続くもので、バブルがはじけた後、融通手形の誘いがありました。話に乗ってしまった会社は倒産や相当な被害があったのですが、私は「手形は紙切れ」という生前の父の教えを思い出し、実印を押すことはなく、大川に被害はありませんでした。


 その後、世に言う「姉歯事件」や、政権が変わって「コンクリートから人へ」という方針になったため、仕事が激減しました。


 この苦難を乗り切るため、一番先に行ったのは専務だった夫の解任と離婚でした。退職金1年分の生活費を私が銀行から借り、家も渡して辞めてもらいました。まわりから批判を浴びましたが、「これも会社を守るため」と割り切りました。


 会社に向き合う姿勢も変えました。定期預金を解約して返済に充て、借り入れの金利を減らし、無駄な時間の見直しも行いました。朝4時半に出社し、電気をつけ、コーヒーを用意し、出勤してきた社員に「おはよう」と声かけもはじめました。「みんなで会社を守る」という雰囲気づくりに必死に取り組み、何とか苦難を乗り越えました。


同友会での学びと展望


 同友会に入会したのは58歳の時です。同友会は、女性の話を受け入れ、新人もベテランもわけ隔てなく平等にチャンスを与え、自分たちが勉強したことを惜しみなく教えてくれるところです。それを自社に合わせて実践してきたおかげで、事業承継も無事終えることができました。


 従業員から、「大川は私たちにとって最後の砦なんだ。他へは行けないんだよ」と言われたことがあります。わが社の従業員の多くは、障害者手帳こそないものの、他人とのコミュニケーションをとることが苦手な方や、トラブルが多くて他で働くことが難しい方たちです。この方たちを守っていく会社、地域に根ざした会社にならなくてはいけません。


 現在、人材の確保について取り組んでいます。今後増えていくであろう40~50代の独身男性のために、中古物件をリフォームし、シェアハウス式で住んでもらい、資格を取ってもらうなどの教育に力を入れています。また、ベトナム人実習生を札幌の寮で受け入れていく準備も始めています。


 私はお花が趣味ですが、同じ花でも向きや角度を変えて活けることで、表情がまったく変わってきます。人育てや経営にも通じるものがあると思います。


 私は人が大好きです。この人の一番いいところはどこか?いつも考えて接しています。従業員たちが会社を支えてくれ、私の心のよりどころとなっています。そんな家族同然の従業員たちと共に、今後も地域に根ざした会社をつくっていきたいと思います。


(2018年10月19日「第35回全道経営者“共育”研究集会inとかち」第10分科会より 文責 石垣香子)

 


 

■会社概要
設  立:1969年
資 本 金:5,000万円
従業員数:40名
事業内容:建設工事業
     (型枠・解体)