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【54号】飛べロケット!みんなの夢を乗せて

2006年01月01日

(株)植松電機 専務取締役 植松 努(赤平)

 

飛行機にあこがれて

 

 私は1966年に芦別市に生まれました。父は炭鉱のモーターなどを直す仕事をしており、とにかくモノを作るのが好きな人で、ゴーカートのようなものまで作ってくれました。「モノは何でも自分でつくるものだ」と幼心に強く思いました。


 小さい頃は、一人で遊ぶのが好きで、一番好きだったのは飛行機とロケットの本を見ることでした。大きくなるにつれ、紙飛行機やペーパークラフトなどをつくるようになり、本を片手に展開図の書き方をずいぶん勉強しました。


 しかし、自分の興味以外のもの、たとえば学校の勉強はほとんどだめでした。勉強のあまり出来ない私を不憫に思ったのか、母親が「思うは招く」という言葉を教えてくれたのです。母親にしてみると慰めの言葉だったと思うのですが、私はそれを真正直に信じてきましたら、不思議なことに飛行機を設計している会社に本当に就職することができました。


 入社して、小型飛行機や新幹線の先頭車両の設計に携わりました。その会社では、「奇跡はお人よしが起こす」「奇跡は帰社のタイムカードを押した後に起こる」「奇跡は要求仕様書に書いていない」といった社風で、入社当時は審査会の直前は徹夜があたりまえでした。しかし、年々飛行機づくりの好きな社員が減ってきて、時間を忘れて頑張る雰囲気が失われていきました。周りをみると、企業のブランドで入社してきた社員ばかりで、気が付くと飛行機づくりに憧れた人がほとんどいない職場になっていました。と同時に、日ごとに日本の航空業界の現状に耐えられなくなっていきました。そして1995年、実家で免許のいらないウルトラライトプレーンという飛行機づくりをやろうと思い芦別に帰ってきました。

 

航空業界と我が社のものづくり

 

 実家では、父が自動車電装品修理業を始めていました。しかしすでに電装業界そのものがなくなりつつありました。それは、電装品が1)壊れなくなった、2)複雑で高度、特殊な能力が必要になった(丸ごと交換式に)、3)別な商流が出てきた、4)後継者を育成してこなかったというのが主な原因でした。


 芦別に帰ってきて早々、父と二人で電装修理の技術を活かしてできることを考え、バッテリーとオルタネーター(交流発電機)を使って動くマグネットを開発しました。当社のマグネットは、スクラップ屋さんなどで鉄をくっつけて運ぶのに主に使われています。建設機械にOEM供給し、おかげさまで油圧ショベル用のものは9割のシェアがあります。


 このマグネットの開発では、まず「15年先を見て設計する」ことを基本にしました。今はまだリサイクル解体は定められた場所でしかできませんが、排出する現場で即座に対応するのが一番良いのです。将来そのようになると考え、小型の油圧ショベルに特化して、特別な加工をせずに手軽に使えるマグネットというコンセプトで設計しました。


 また、「相手と同じ土俵に乗らない」ことに気をつけました。力の差のある相手に真正面からぶつかっては負けてしまいますので、マグネットの王道に背くことにしました。マグネットというのは重くて大きいものほど強力で、たくさんの仕事をさせようと思うと必然的にマグネットが大きくなります。しかし現場ではもっと軽く、手早く使えるものが欲しいと言う要望が大きく、市場にまったくなかった既存の油圧ショベルに使えるものに行き着きました。


 そして、「武人の蛮用に耐える」ということです。壊れない、壊れてもすぐ直せる、まちがった使い方ができないといった、いわゆる生存性が高いものを目指しました。まず壊れない製品づくりに取り組み、すぐ直せることを考えてだんだん小型化、現在は丸ごと交換が可能なほどになりました。


 この3つは航空業界に古くから伝わるモノづくりのモラルそのものです。そして、当社の場合、そのモラルに則ったところ、結果的にどれもすべて電装屋さんが衰退した原因を逆手にとり、その良さを取り込んだ形になったのです。メーカーが壊れないものを作ってどうすると言われることもありますが、壊れるものを作って評価を下げるより、いい物を作って、さらにそれを超える商品を作るということが大切だと思っています。

 

ロケットが社員を変えた

 

 ロケットとの出会いは、次の商品として農薬散布用機械の開発を思い始めた頃です。ある時、ノーステック財団の方から、「ぜひアドバイスを受けたら」とご紹介いただいたのが、日本のロケット開発の第一人者である糸川英雄さんの一番弟子である秋葉鐐二郎さんでした。その秋葉先生が、永田教授をご紹介くださったのです。当時、永田先生はロケットエンジンの実験場を探しており、たまたま「広い場所はありませんか」と聞かれたので、お役に立てばと思い「うちにありますよ」と話したのです。


 ちょうどその頃、ある団体で児童養護施設のボランティアに行きました。現実に愕然としました。自分の会社が良くなるだけでは解決できない問題があると知り、何より悔しい思いが先立って、人間の幸せとは何か考えさせられました。人間の幸せは、自分の思いが叶ったという「自己満足」を感じること。そのために私ができることとして頭に浮かんだのが、自分の憧れである宇宙をテーマにイベントを開き、子供たちが夢を追うことの楽しさを知るきっかけにしようと思いました。


 このイベントを成功させたい。それにはロケットの実験が更に大きなバックアップになると思い、永田先生に当社での実験をお願いしました。通常のロケットでは絶対に見ることができない噴射実験ですが、火薬を使わない安全なロケットのおかげで、イベント当日は実際の噴射実験を見学できるなど子供たちは大喜びでした。しかし、赤平の子供1,000人のうち150人しか参加していただけませんでしたので、まだまだだという思いをもちました。


 実はこのイベントで予期せぬ効果がありました。当社の社員が、このイベントを通して大きく変化していったからです。彼らは、子供たちと関り、自分たちの作ったロケットに子供たちが喜んでくれるのを見て、「社会の役に立っている」という実感があったのです。ロケットを作っているということが親戚を始め、周りの人からほめてもらえたということも大変な喜びになりました。何より、自分たちのロケットづくりがどんどん進化して、一歩ずつ宇宙に近づいている実感そのものです。そんな社員の思いを更に高めるためにロケットの低コスト化、すなわち設計からすべて当社でやらせていただくということを提案いたしました。一から自分たちでやることで、自発的に勉強し、どんどん新しいことに挑戦するようになり、社員の成長が顕著になっていきました。

 

人を育てる産学連携

 

 今、こうしてロケットに取り組めるのも、「学」との出会いのおかげです。永田先生と知り合い、学生さんがあってのことです。産と学の連携が大きな意味を持つのは、新商品の開発、そして新事業の開拓です。それは、「いままでにないもの」を考えること。しかも、自分たちつくり手が良いと判断するものではなく、市場が良いと判断するものでなければいけません。良いモノを良いと言ってくれる人がいなければ、だめなのです。市場が愚かであれば、良いモノも理解されない。市場のレベルが上がっていかない限り、良いモノはまったく必要ないということです。ですから、新製品を開発したり、新事業に取り組むのと同じぐらいの力で、市場の啓蒙と育成をしていかなければならないということです。これは産と学の共通の課題といえるのではないでしょうか。


 私たちがこれからやりたいと思っているのは、しっかりとした社会をつくるお手伝いをすることです。地域の子供たちのレベルアップのために企業が学校に関るというのは、これからとても大切なことだと思います。また、地場の中小企業がその連携に関って、大学と共同研究をすすめれば長期間にわたる継続が可能ですし、技術の継承も可能です。これが産学連携の新しい姿になるとも思っています。産学連携を通して、良い学生を市場に送り出すこともできるでしょう。


 しかし、人育てをしようにも、現実には子供の数が少なくなっています。当社の社員に聞いてみると、やはり教育費が大きなネックになっているのです。
 ですから、これは私の夢ですが、授業料がタダ(無料)の大学を作りたいと本気で思っています。我々企業人が無報酬で子供たちに関っていけば、費用もかからずに生きた教育ができます。地元を守るために、地元の人が先生になる大学があればと思ってのことです。理想ばかり言うなとも思われるかもしれませんが、理想はあきらめるためにあるわけではありません。理想を追い求めていかなければ、新しい社会を切り開くことはできないと思います。


 まだまだ厳しさの続く北海道の経済だと思いますが、これからの時代は原点に立ち返り、理想を追うことだと思います。皆さんの会社にも「我が社なりのロケット」があるはずです。「うちの会社にもロケットがある」「ロケットの種を蒔いている」ということが、社員と会社が発展する大きな基礎になるのではないでしょうか。当社もロケットの実現を社員とともに追い続けていきます。


(文責 中上)

 


 

■会社概要
【設  立】 1999年
【資 本 金】 1,000万円
【従業員数】 12名
【業種】 電気機械製造