【54号】女性の元気が豊かな社会を創る~安心・安全・おいしさを心に込めて~
2006年01月01日
(株)はしもと 代表取締役会長 橋本 央子(札幌)
父の言葉と断たれた夢
幼い頃、私は「男女に関係なく学問に励み、自立しなければならない」と父に教わりながら育ちました。まだ男尊女卑の思想が強い時代でしたが、父の教え通り高校へ進学します。しかし、私の将来を見ることなく、父も祖父も亡くなり、戦後の農地改革で収入源だった我が家の土地は、いつの間にか全てなくなっていました。
残された家族でどう生活していこうか悩みました。親戚にパン屋がいたこともあり、うちも商売をしてみようかと、パン作りの勉強を始めます。ところが一通りの準備ができた頃、母親のパン嫌いを知ったのです。「原料は同じ麦粉。丸くしないで長くしたら」という母親の一言から、パン屋ではなく麺屋を始めることとなりました。
しかし、私には商売をしようという考えはなく、学校を卒業したら、働いて自立しようと思っていたのです。私は父親の職業でもあった教師になろうと考えていました。無事採用が決まり、意気揚々と母親に報告しましたが、教師の給料で家族が食べていけるのかと反対され、17、8の私はそれを素直に受け止めるしかなく、教師の道をあきらめ麺屋へ加担する決意をします。
私の結婚
いざ麺屋を始めるとなると、力仕事が多く男手が必要でした。兄弟は皆私より年下でしたし、どうしようかと考えていた折、たまたま母親が相談した知り合いの息子さんが、自分はどうかと名乗り出たのです。彼は国鉄職員でしたが、その職を気に入っておらず、独立したいと常に考えていました。そこに運良く商売の話が飛び込んできたため、二つ返事で働きにきてくれることになったのです。この彼こそ、私の亡くなった主人。結婚を申し込まれた時に、もしここで結婚を断ると、ようやくきてくれた男手がいなくなってしまうと感じ、先延ばしにはしたものの、22歳で嫁ぎました。
新たな生活のスタートは、貧乏生活の始まりでもありました。電化製品が一つでもあったら、私は離婚しなかったという当時の女性の話が先日テレビに放映されていました。私も朝4時、5時から起きて支度をする毎日でしたが、自分たちや実家の生活のために耐え続けました。その間に何度か流産を経験し、結核療養所にも2度入るなど、私の身体はボロボロでした。
2度目の療養所から戻ってきた時には、父親が亡くなって12年の月日が経ち、幼かった兄弟も成長し、実家の商売を継ぐという話が出るようになりました。それは主人の夢が叶うチャンスでもあり、兄弟に実家を任せ、ついに2人で独立することができたのです。
生き抜くための商売からやりがいの商売へ
小樽駅の近くで麺の卸業を始めたものの人手に困り、結核療養所に入っていたときの知人に大分手伝ってもらったお蔭で、お店は繁盛するようになりました。そんな折大家から、合同で商売がしたいという申し出があったのです。
しかし、主人は承諾しませんでした。同時期、麺類関係の商売をしている若手経営者が五店舗集まり、企業合同をするという話もありました。こんなとき女性は強いもので、私は主人に悩まず逃げようと持ちかけたのです。店を閉め、夜逃げをするように若手経営者の方へ出向いたのです。
企業合同を始めて3年。順調に進んではいましたが、主人は「今のままではサラリーマンと一緒だ」と話すようになり、小樽の町には陰りも見えていました。私には、以前ある経営者と交わした「商売は発展している都市へ流れ、その後を追わなければうまくいかない」という会話が頭の片隅にあり、主人に札幌へ出ないかと提案。主人は賛成してくれました。亭主関白が多い世代でしたが、女性を尊重する家庭で育った主人は、私の提案に必ず真面目に応じてくれたのです。
昭和43年。合同企業では、私が一緒に住み込みで働いたため、主人の給料のほとんどを残すことができました。その長年の貯金と銀行からの融資を手に、雪の降る中、小1と4歳になった子供の手を引き、札幌へ出てきたのです。
安心・安全・おいしさへのこだわり~ごまそば鶴喜の誕生
札幌では、また麺の卸業を始めます。仕事は順調で、麺は食堂や病院、市場に卸すのが圧倒的でした。しかし世間の流れは、市場からスーパーへと変わり始めます。市場が主流だった頃は、生ものは腐るという考えが当たり前。スーパーが主流になると、冷蔵庫を完備して商品を長持ちさせるという考えが先行し始めたのです。そして、防腐剤の添加が急激に増加しました。朝作ったものを、その日のうちに食べてもらえる所へ卸したいと思っていましたが、スーパーへ卸さなければ、商売自体が危うくなるのです。しかし、防腐剤が添加された物は、私たちにもその味の違いがわかり、口にできません。次第に、自分たちが食べたくない製品を売るような商売なら、辞めたほうがいいと思うようになりました。
主人はそういうことが大嫌いで、私たちはどうすればお客様に喜んで頂けるのかを真剣に考えました。やはり、朝作ったものをその日のうちに食べてもらう商売に変わっていかなければ駄目だという結論に至り、考えついたのがそば屋でした。
今までの商売とそば屋とでは全く異なります。タレや具からお店まで、新たな製品を作らなければならなかったのです。主人はうまくいかなかったら困るからと卸業を続け、私にそば屋の経営を任せました。「おまえにできない商売なら、自分もできない」と私を信じてくれたのです。
様々な研究を通して、ようやく大通りに1店舗目をオープンさせましたが、銀行の態度にこうも非情なものかと感じたこともありました。当時を振り返ってみると人と人とのつながりは、あらゆる場面で生きてくるものだと感じる経験が今まで数多くありました。
京都、比叡山麓に「そば処鶴喜」という老舗のお店があります。皇室に献上するほどの名門で、「北海道でも無添加のおいしいおそばを提供する店を作りたい」という私の願いを聞き入れ、姉妹店として、店名「鶴喜」の使用を快諾して下さいました。まさに、計算ではない人の情けやお付き合いの中から様々なものを頂き、助かってきたということを改めて実感したのです。
子供は自分だけのものではない、社会のもの
今から丁度20年前、あまり丈夫ではなかった主人が亡くなりました。本当にショックでしたが、主人の仕事は良く見て、理解していたので継ぐことに抵抗はありませんでした。しかし、今まで悩み事がなかったわけではありません。以前見た、「風とともに去りぬ」という映画の主人公、スカーレットオハラの「明日考えよう」という台詞に、感銘を受け、よく励まされたものでした。その後の人生を、考え込んだりくよくよしたりすることを止め、明日考えようと思えるようになりました。そうすると、考える前に足が先に出て、気が楽になるのです。
そうして働いているうちに、後継者を考えなければならない時期が私にもやって参りました。私たちが苦労して築き上げたものをもし長男が継ぐならば、それはそれでいいことではないかとかねてより考えていました。しかし、息子が嫌だと言うなら継がせても無駄だという気持ちもありました。息子には息子の人生があり、私個人のものではないと考えていたからです。
中学3年生の春、長男に後を継ぐつもりなのかと尋ねましたが、その返事は1年後に聞くこととなります。仕事さえ覚えていれば、何とかやっていけるかもしれないと考え抜いた彼は、高校入学直前、継ぐ決心をしたようでした。長男が継ぐと決まってから、それなりの準備を進めた私たちは、息子を高校1年からアルバイトで雇い教育担当者を就け、商売を経験させていきました。
息子は今年44歳。気がつけば30年近く商売に携わり、又、一端の職人にも成長しました。去年の末頃から、私は全面的に経営から手を引き、今では、主人の仏前で「あなたの夢はしっかり息子が継いでいますよ」と報告しています。
女性の元気が豊かな社会を創る
10月6、7日と奈良で開催された女性経営者全国交流会へ、北海道から9名の皆さんと参加して参りました。私と同様、「男女互いに、精神的・経済的に自立しなければならない」と教えられ育ったと仰る安達先生の記念講演には、非常に強い感銘を受けました。私は、子どもの教育やお年寄りを見ることは、男女が同等の立場で取り組み、女性の力や元気は、社会や経済の発展に多大な影響を与えているのではないかと、女性部ならではの学びの熱さを感じた次第です。
北海道同友会には、6つの支部に女性部があり、各々の地域で活動していますが、なかなか交流の場を持てないのが現状です。今回の奈良での学びを大切にし、意見交換ができる機会を積極的に設けたいと考えています。そして、再来年の東京で開催される女性経営者全国交流会には、一人でも多くの皆さんと参加し共に学んで参りたいと思っております。
(文責 神谷)
■会社概要
【設 立】 1967年
【資 本 金】 1,000万円
【従業員数】 150名
【業 種】 めん類卸売業、飲食業