【55号】働き・生きる意欲を根源から育てる挑戦~青年たちの悩みを受けとめ、共に生きる実践から~
2007年01月01日
(有)青少年自立支援センター ビバ
代表取締役 安達 俊子(ビバハウス 運営委員長)(余市)
厳しい環境に生きる若者たち~共育と響育から~
学校の創設時から35年間勤めた北星余市高校を退職して、6年前に、民間教育施設「ビバハウス」を、夫と二人で設立。又、「ビバハウス」の5年間の実績が認められ、2005年6月、有限会社による「若者自立塾」を、新たに設立いたしました。
2005年の10月に、奈良県で「全国女性経営者交流集会」が開催された際、記念講演をさせていただいたことをきっかけに、同友会に入会させていただきました。よろしく、お願いいたします。
北星余市高校の教員時代に学んだことですが、教育は「共育」であると思います。このことを胸に教育活動を進めたときに、生徒も教師も大きく変化する。そのように考えるようになりました。
又、教育は「響育」である。人間同士が響きあい、心と心を結び合った時に、生きる力を与えられ、頑張るという気持ちになれるということも、北星余市高校と「ビバハウス」の実践から学びました。
最初に、現在、青少年期を迎えている若者たちが置かれている状況は、かつて無いほど厳しいものであるということを、共通の認識にしたいと思います。すでにご承知でしょうが、6月には奈良県で、16歳の少年による母子放火殺人事件が起きてしまいました。8月には、稚内市で、同じ16歳の高校生による母親殺しが、そして、山口県での高専生によるとみられる同級生の殺人など想像を超える事態が発生しております。いずれも、若者たちの本当の心の叫びといえるものを、誰も正しく受け止めてあげられなかったことによって起きた犯罪ではなかったのかと、私には思えてなりません。
稚内の少年は、両親の離婚について、母親から「お前には関係のないことだ」と言われたことを、殺人の動機としています。少年期の子どもたちにとって、両親の離婚は、その心に、どれほど大きな空洞を生み、苦しめるものであるかを、「ビバハウス」の生活で痛感させられている私にとっては、母親の言葉が耐え難い衝撃を少年の心に与えたであろうことが推測されます。心無い一言が、少年を殺人犯に追いやることもあるということを、私たちは考えなくてはならないと思います。若者たちにとって、周囲の大人の対応が、彼らの心にまで届くものになっているかどうか、それを、自分自身のこととして徹底して考えてみる必要があるでしょう。
最近では、滝川市で小学校6年生の少女の、いじめによる自殺の遺書をめぐって、大きな問題になり、これまで、その事実を認めてこなかった教育長が誤りを認め、遺族に陳謝して辞職するという事件も起きました。自らの死をもっていじめの事実と、その耐え難さを告発した少女の訴えが、教育関係者の様々な思惑のために、一年以上にわたって、まともに取り上げられなかったということが、今回の事件の本質であり、悲劇であります。
このような厳しい状況の下で、必死に生きている若者に対し、共通の理解を持ち、さらに深め合うことができましたら、大変嬉しく思います。
35年間、北星余市高校の教師として生徒たちから学んだもの
北星学園余市高等学校は、余市町からの誘致を受けて、1965年(昭和40)に学校法人北星学園が設立したものです。北星学園は中学校、高等学校、短期大学、大学、大学院がある私立の学校法人です。
私は、北星学園大学を卒業し、私学の校風と教育力にひかれて、当時、開設準備中であった北星学園余市高等学校に就職しました。開校時から、様々な困難や生徒たちが抱える問題に苦しみながらの学校運営でした。それでも、教師と生徒、そして、父母、地域の方々が力を合わせて、よりよい教育をめざして日々の努力を続けていました。
北星余市高校6年目のある日のロング・ホームルームのことです。その時は、生徒たちの様子が違っていました。机を教室の後ろに寄せ、全員、きちんと座って私を待っていたのです。そして、委員長がクラスを代表して「先生だって人間だろ。つらいこと、悲しいことだってあるだろう。そんな時は、俺たちの前で泣いたっていいじゃないか。失敗したっていいじゃないか。俺たちだって悪いことをする。そんな時は、ガッツリ怒ってほしいし、叱って欲しい。人間教師になってほしいんだ。」と、何時に無く険しい表情で言って来たのです。
この瞬間、6年経つ内に、「教師」という「鎧兜」で身を固め、自分自身を覆い隠し、生徒との心の距離を大きくしてしまっていたことに気付かされ、私は打ちのめされました。そして、その夜は一睡もせず、生徒の訴えを問い直し続けました。
そして、生徒たちは、私が変わることを期待して言ってくれた事に気付かせられたのです。その事に勇気をもらい、翌朝は学校に向かうことができました。
それからは、素直に、喜びや怒りを表すことが出来るようになったのです。すると、気持ちがとても楽になり、全力で生徒に立ち向かうことが出来ました。生徒たちも、そんな私を受け入れてくれて、教師としての自信を少しずつ取り戻すことができたのでした。
そんな時、私が大きく変わる機会を与えてくれる生徒が現れます。後の義家弘介先生、当時は義家君と呼んでいた彼でした。
当時の状況をお話ししなければなりません。地域の過疎化と少子化が急速に進み生徒数が減少したため、北星学園の理事会は、私たちに北星余市高校の廃校を提案してきました。教師、父母、生徒、が一体になって創ってきた北星余市の教育の灯を消したくないという思いから、存続をめざして連日の会議が続けられました。
当時は、中退生の事が、社会の中で大きな問題となっていた時期でもありました。私たちは、様々な事情で、高校を去らなければならなかった彼らに、再び、教育の機会を与えることが私達の、これからの使命ではないのかと考えたのです。そして、教職員は給与の4%を、毎月、学園に寄付し続けながら理事会に存続の思いを訴えました。
最初は動かなかった理事会も、ついに、3年間の経過を見て判断するという条件付きで許可してくれたのでした。
創立23年目の年で、私たちが「転・編入生受入れ元年」と呼んでいる、この年に2年生の私のクラスに、転・編入生の一人として入って来たのが義家君でした。当時、彼は、教師も親も周囲の大人も信じようとせず、常に周りを威嚇していました。その彼にとって、転機となったことがあります。
クラスの転入生の内の2人が、登校しなくなり出席日数不足で進級が危ぶまれた時のことです。担任として、私も、しばしば彼らの下宿に足を運びました。すると、一度は出てくるのですが、すぐに又、欠席続きになってしまう2人でした。
2学期最初の日のホームルームで、私がそのことを話すと、義家君は私の真ん前まで歩み寄り「てめえ、それでも担任か!」と怒鳴ってきたのです。更に「俺たちにとって北星余市は、最後の場所だ。仲間の誰1人も失いたくない。こんな大事なことを、どうして、もっと早く言ってくれなかった。俺たちを信用も信頼もしてなかったからだ。」と、激しく言ってきました。私は彼の迫力に圧倒され、その場に立ったまま、彼の目をじっと見続けていました。
その時、私の口から出た言葉は「ごめんなさい」でした。それを聞いた義家君は、クラスの全員に向かって、「みんなにお願いがある。今日から2人のところに説得に行きたい。自分もいくが、みんなも力を貸してくれないか。」と言いました。全員が首を縦に振ったことはいうまでもありません。その後、クラスの全員での訪問がはじまりました。数日後には、欠席していた2人もクラスに姿を見せ、学校生活が続くようになったのです。
最初、転・編入生が半数を占めるこのクラスは、毎日のように、揉め事が起きていました。しかし、この後は、雰囲気が変わって行ったのです。又、義家君たち転・編入生と1年生から入学した生徒たちが、気持ちの上で、ひとつになっていきました。そして、全校のクラス対抗行事で3年生を凌いで優勝するという快挙を収め、又、全員が進級できたのです。
生徒たちは、確かに様々な問題行動を起こします。しかし、その行動には、必ず背景や理由があります。その背景や理由が判る教師になって欲しい。そのためにも、俺たちと深く関わってほしいし心の中にまで入ってくることが出来る教師になってほしいと求められていることに気付かせられたのでした。
創立31年目からは、1クラスの半分以上の数の、不登校を経験した生徒を受け入れることになりました。生徒たちは繊細で傷つきやすく、大きな声や叱る言葉にも過敏に反応してしまうのです。そして、自分の殻を閉じてしまいます。身体的にも反応して、その場に居られなくなるほどの不適応症状を見せる場合もあります。教師は、言葉を選び、表現にも最大限の注意と心配りをしなければならなくなりました。彼らは、頑張り続けて来た結果として、不登校などの状態に陥っています。従って、「頑張れ」と言わない指導、それでいて、もう一度やりたくなって、出来ないと思っていたことが自然のうちに達成出来る指導。そして、自分の力で出来た、やれたと実感できる指導が求められるようになりました。
傷つき、親・大人・教師・学校不信に陥っている生徒たちとの間に人間関係を築く事をめざしつつ、教師は、生徒が自ら語りだすまで待つべきであることも学びました。
このように生徒は、時には居直ったり、暴言を吐いたり、暴力的な手段を伴って迫って来ます。しかし、それは、生徒たちの、自分のことを判ってほしい、自分の方を向いてほしい、自分と深く関わってほしいという心の叫びが、そのような表現になるものなのです。期待するから教師や大人にぶつかってくる。又、時には貝にもなるんだ。そう思えるようになってから、心底、生徒がかわいくて無くてはならない大切な存在になりました。
又、生徒たちは私に、どれだけ教師としてのあり方を教えてくれたかわかりません。北星余市高校での35年間は、生徒が私の先生であり、子ども達から学ぶことばかりでした。時間と心を尽くした分、生徒たちは、ぐんぐん育ってゆきます。正に、あっという間の35年間でした。
何故、青少年自立支援センター「ビバハウス」を、つくったか
ビバハウスを、始めるきっかけは、退職後の私に対する、26歳になった女性の卒業生からの救援要請でした。ただし、このことについては、在職中の衝撃的な出来事が、深く関連しています。
在職中、1人の卒業生から「相談に乗ってほしい」と電話をもらったことがありました。彼は、8年前の卒業生でした。その時は、卒業式の2日前で、連日、徹夜をしなければならないほど忙しい時期でしたので、十分な対応が出来ないと思い「卒業式が終わるまで待ってね」と、その電話を切ったのでした。しかし、その後、彼からの電話は無く、3カ月後に届いた消息は、彼が自殺したというものでした。
私は、自分自身を責めました。その後、過労もあって体調を崩し、声を出すことも困難になった私は、定年まで、3年間を残して、2000年に北星学園を退職しました。
そこに、彼女からの電話があったのです。夫と一緒に、すぐに彼女の自宅に向かいました。
祖母の年金を頼りに、心の病を持つ母親との3人暮らしの8年間。そして、祖母が亡くなり、今後、どうしていいかわからないという状況でした。
彼女の母親は、「手が汚れるから」などと言って、時には刃物まで持ちだして、彼女に一切の家事をさせませんでしたので、家の中は紙くずや洋服が散乱し足の踏み場も無いほどでした。卒業生の彼女は、その家族の中で8年間、自室に引きこもって暮らしていました。その結果、彼女は、生きてゆくために必要な能力の大半を失ってしまっていたのでした。
私たち夫婦は、なけなしの退職金をつぎ込んで、彼女のために、生活し生きてゆくために必要な力をつけるための施設「ビバハウス」をつくることにしたのですが、それは、私たちにとっては矢も盾もたまらずという心境でした。その後、彼女は私たちとの生活で、自立して生きる力を取り戻し、今では別のグループホームで立派にやっています。
実は「ビバハウス」のような支援施設が、多くの引きこもりの若者たちを抱える家族から、そして、なによりも自分自身の現状を変えたいと願う若者たち自身から強く求められていることが、わかったのは「ビバハウス」を始めてから後のことでした。新聞報道やホームページで「ビバハウス」の活動が知られるにつれて、問い合わせや相談、入所申込みが途絶えることはありません。
「ビバハウス」での若者たちとの共同生活から見えてきたもの
「ビバハウス」では、地元の農家の方や農業生産法人の協力を得て、毎日、短時間ではありますが、農業実習を行っています。海と山に囲まれた余市町の自然の中で、自分の手で植え育て収穫した作物を手にした時、若者たちの中には、ひとしおの思いが湧くようです。又、「ビバハウス」では、食事を大事に考え、全員が揃って大きなテーブルを囲んで食べています。夕食等の支度も、人ずつの組を作って自分たちでしています。最初は、包丁も握れなかった彼らが、経験と共に、得意のメニューを持ち始めるのです。
中には、対人恐怖症で、みんなとの食事の席に着けない人も居ました。最初は部屋まで食事を運び、時間をかけて安心できる仲間であることを確認してもらうことから始めて、みんなと一緒の食事が出来るようになりました。
「ビバハウス」には10代から40代までの年齢の若者たちが、常時、10数名居ます。彼らは、数カ月から数年かけて、生きることへの自信と、自立への決意を手にして巣立って行っています。
2005年度には、厚生労働省が「若者自立塾」という制度をつくり、ニートと呼ばれる若者たちを支援するようになりました。私たちも、「ビバハウス」の実践と経験が役に立つことを願って立候補し、認定を受けて「若者自立塾・ビバ」を余市町に設立しました。この塾は、現在、全国二十五カ所に設けられています。3カ月間の合宿研修を受けて、働くことに対する自信と意欲を持ってもらい、自立と就職の可能性を切りひらこうとする事業です。
「ビバハウス」そして「若者自立塾・ビバ」の活動は、まだ始まったばかりです。これから、この事業を引き継いでくれるであろう若い世代の養成をはじめ、課題は、沢山残されています。しかし、かけがえのない存在である若者たちに、生きぬいてゆく意欲と力をつけてもらうための活動は、今後も求め続けられるでしょうし、私たちも力を尽くして取組んでまいりたいと考えています。
【設 立】 2005年
【資 本 金】 370万円
【従業員数】 7名
【業 種】 青少年自立支援事業