【54号】私の後継者づくり40年計画~息子と交わした「事業継承覚え書」~
2006年01月01日
(株)菅製作所 代表取締役会長 菅 鉄夫(函館)
経営者歴50年のスタート
当社の創業は戦後間もない1946年1月。日魯漁業の缶詰機械などを製作する工場に勤めていた父が、函館市内で独立創業しました。主に漁船のエンジン修理、缶詰機械の部品などを製造していました。この仕事は意外に精度が厳しく、当社のその後の技術的基盤を形成するのに大きく貢献しました。
高校進学の際、両親から普通高校・大学進学を強く勧められましたが、私は函館工業高校に進学しました。父の働く姿を見たり仕事の手伝いをする中で「菅製作所は私が引き継ぐ」と心に決めていました。函館工業高校卒業間近の1955年2月に父は癌で急逝しました。私は従業員5名の当社を引き継ぎました。私が長男、下に妹が2人、末弟は3歳でした。一回り以上も年上の従業員から子ども扱いもされましたが、ここから私の企業経営の挑戦が始まりました。
漁労機械から真空装置製造メーカーへの転換
1963年には、小型漁船の発電用クラッチの生産に踏み出しました。漁船の高速化が進み始めた時代で、標準化を追求した当社の製品は爆発的に売れ、北海道だけでなく、青森県、秋田県までお客様が広がりました。しかし、1985年の第2次オイルショック以降、漁業全般が急激に下り坂となりました。次の製品を模索し始めた頃、1986年、函館市郊外に北海道立工業技術センターが設立されました。このセンター設立は、造船、水産業の不振が目立ち始めていた函館にとって、新たな産業への転換を期待されるものでした。
センターのオープン時には、「新技術開発サロン」という異業種交流組織がスタート。地元メーカー20社が参加し、4つの専門部会が組織され、私は真空部会に所属しました。
1990年には、いよいよ漁労関係の仕事は乏しいものとなり、真空分野に踏み込むことにしました。技術が何も確立しないまま1992年に工場を先に建設しました。その翌年、たまたま北海道大学の真空関係の教授から、ある人物の紹介を受けました。函館出身で北大を卒業後、大手メーカーで17年間、真空関係の仕事に従事してきた技術者でした。Uターンを希望していたのです。この技術者の採用が、その後の当社を大きく変えていく動力になりました。
現社長の経歴
2004年4月に社長を長男の育正に譲り、私は代表取締役会長に就任しました。社長は函館高専在学中から工業デザイナーを志していましたが、卒業後、千葉県のプラスチック射出会社に就職しました。学生から社会人になり、具体的に当社に関心を抱くようになったようです。ちょうどその頃、先の工業技術センターがオープン。センター設立時には民間から4名の研究員を受け入れるという要綱があり、幸いにも息子は、研究員として3年間をセンターで過ごすことになりました。
センターではメカトロニクス部門に配属され、制御、測定関係の仕事をさせていただきました。この3年間は大学院生活のようなものであり、息子はメカトロニクスの基本を身につけることができました。また、センターの研究員はもとより、大学関係者の方など人脈の幅を広げた意義は大きいと思います。今後の当社の財産となることを期待しています。
社長交代劇
私は「当社の次期社長は育正だ」と公言し、息子が幼い頃から意識的に当社の親睦行事などに参加させていました。私の教育の成果なのか、息子は相当早い時期から当社を引き継ぐことを気にしていたようです。
1995年、突然、「コンピュータ会社を設立したい」と申し出がありました。私が「菅製作所はどうするのだ」と問うと、「いつ譲ってくれるのか」との返答。この時は私もいささか閉口しました。
私は当社の社長業務を書き出しました。70項目の役割がありました。私は、権限委譲スケジュールを作成し息子に渡し、息子には社長を引き継ぐための計画表を提出させ、再度私が点検し、少しずつ権限を譲ってきました。2003年には、私と妻と息子と顧問税理士で事業継承覚え書を取り交わしました。
事業継承についての考え方
中小企業の後継者の選択肢は限定されていると思います。中小企業の経営の実態を考えれば後継者が、息子や娘、娘婿などの血縁者に成らざるを得ないのではないでしょうか。どの時点で子供に事業継承を切り出すのか、親の思いをどう子供に託すのか、どのような形でバトンタッチするのか非常に難しい問題です。
事業後継者の条件は、第一に達成意欲の高い人。第二に明朗闊達な人。第三に、周囲への心配りが無理なくできる人であると私は思います。また、後継者となるべき人は、社内の圧倒的支持、認知が必要です。そして、業容がそこそこの時が継承の絶妙のタイミングかもしれません。
函館支部の仲間が「後継者問題は譲る側と引き継ぐ側の競い合い。それ以上に親父と息子、男と男の闘いだ」と話されていました。北海道同友会は4,800名の中小企業経営者の会。4,800通りの経営実践があるように後継者問題についても4,800通りのドラマがあるのだと思います。
私は父の急逝という引き継がざるを得ない状況の中で事業を継承しました。経営者としての50年の挑戦の日々の中で、漁船のエンジン修理や缶詰機械部品を製造していた小さな家内工場を船舶用クラッチ、動力伝動装置、研究用真空装置メーカーに転換できました。それは、生き残るための必死な闘いの結果であり、現在進行形の経過でもあります。引き継いだ3代目社長は、私の期待に加え地元の期待も加わり、相当のプレッシャーを感じていると思います。
経営者は何があっても企業を維持し発展させる最終的な全責任を負っています。つまり、自分で自分を成長させることができる人間でなければ経営はできないと思います。
※本文は、報告者の菅会長さんの了承の下、報告内容の抜粋に加筆したものです。(文責 伊藤)
■会社概要
【設 立】 1946年
【資 本 金】 3,400万円
【従業員数】 20名
【事業内容】 船舶用クラッチ、動力伝動装置、研究用真空装置などの設計製作