【67号 特集2】人が生きる経営 ー共に学び 共に育ち 共に地域で生きるー
2019年01月01日
函館支部9月例会は、「障がい者雇用の実践」「障がい者福祉の理念と軌跡」「経営危機と立て直し」をテーマに、3名の経営発表を行いました。それぞれの発表には、地域に必要とされて存在する企業の役割、福祉のあり方、経営者の思い、そこに生きる人々の姿がありました。
〈報告1〉
経営者の役割と社員が輝く職場づくり
㈲マルトミ松前商店 代表取締役 松前 富弥(函館)
〈報告2〉
創業から今へと繋がる理念と軌跡
社会福祉法人侑愛会 道南しょうがい者就業・生活支援センター すてっぷ
所長 河村 吉造(北斗)
〈報告3〉
経営危機からの再生と挑戦
NPO法人日本障害者・高齢者生活支援機構 理事長 田中 慎一(函館)
報告1 松前 富弥
当社はイカの塩辛を筆頭に、松前漬けや一夜干し、沖漬けなどの製造と販売を行う会社で、47年前に創業しました。
塩辛はイカを割き、足やミミ、内臓、ゴロを細く切り、塩や調味料を混ぜてつくるため、人手が必要な作業がたくさんあります。小規模な加工場で、製造しているものが限られているため、障がい者を雇用しやすい要因にもなっています。
障がい者雇用を始めたのは40年程前、父が知人から「知的障がいがある人を、働かせもらえないか」と相談されたことがきっかけでした。私が幼少期の頃からずっと雇用し続けていましたので、父は障がいのある方に働いてもらうことに意義を感じていたのだと思います。現在は従業員15名中、アルバイトも含め男性3名、女性1名の障がい者を雇用しています。当社は水産加工場で重いものを持ったり、床が滑りやすかったり、刃物を使う仕事もあるため、4名全員が軽度の知的障がい者です。
障がい者は特別ではない
当社では採用の際、「この人は障がい者です」とか、「新しく障がいを持っている人が入ってくるよ」などと知らせたりしません。普通の従業員と同じように働き始めていただく環境ができています。
最初はたまたま雇用しましたが、今では当社にマッチングする方には長く働いてほしいという思いがあります。そこで、採用の際に気をつけていることがあります。
まず本人だけではなく、できる限り家族とも面談しています。様々な問題が起こる可能性があるため、相互理解を深めることが大切です。また、家庭環境や本人の健康状態、嗜好、得意なことや苦手なことを聞き、採用や教育をする上での参考にしています。
2つ目は、採用する前に現場で何日か研修を行っています。実際に仕事をしてみてどうか、という見きわめも必要です。
3つ目は、本人が仕事に対して前向きかどうかです。障がい者は一般の学校に通っていても、普通学級の生徒とは違うところで生活してきた方が多く、職場に適合していけるかどうかを重視しています。
よく、「障がい者雇用にノウハウはないのか」と聞かれますが、これといったものはありません。ただ、当社のような小規模の加工場では、従業員全員が同じ空間で一連の作業を共同で行うため、何が苦手で何が得意なのかお互いに理解し、助け合うことができます。
また、すでに子育てを終えた従業員が、障がいがある・なしに関わらず、若い従業員たちを自分の子どもと同じように叱ってくれます。本人のために本気で叱ってくれるということは、信頼関係ができているからこそだと思います。
工場長に抜擢
昨年、社歴10年の障がい者を工場長に抜擢しました。本人の意欲もあったため任せることにしましたが、1年経ち、うまくできないこともたくさんあります。
本人と3カ月に1回約4時間、工場長の課題について会議を行っています。本人は、「指示はできるようになったが、人を叱ることができない」という課題をあげています。また、何でも自分でやろうとして人に助けを求めない傾向があります。幼少期から、人に叱られることはあっても叱ることはなかったこと、自分から助けを求めなくても助けられてきた、という背景があったのだと思います。しかし、周りの人も協力し、工場長という立場をなんとか維持しています。
「自分ならもっとやれるのに」と言う従業員もいます。確かにそう思う部分もありますが、それは健常者でもどこの会社でもあることです。苦しみながらも日々成長しているので、このまま工場長としてあと40年は働いてほしいと思います。工場長を手助けするように導き、他の従業員よりも責任のある仕事を任せ、皆で成長できるような職場にしていきたいのです。
働くことへの責任感を
培ってもらえる職場に
私は障がい者も他の従業員も同じ戦力として考えており、継続して長く働いてくれるかどうかを重視しています。障がい者を採用しても、助成金の申請は一切しません。給与、勤務時間などの待遇面もまったく同じです。ですから採用する際、本人に「特別扱いは一切しません」と言っています。また「仕事はお手伝いではなく、働いてお金を得ること」「苦しいことや、やりたくない仕事も、それを乗り越えることであなた自身が成長する」という話をよくします。働くことへの責任感や自分で稼いで生活する意識を持ってもらいたいからです。
障がい者はお手伝い的な仕事しか任されないことが多いようです。しかし彼らはすごく真面目で、会社を休まず、がんばって来る人が多いです。私が伝えたいのは「きちんと教育すれば戦力になる」ということです。そのための環境をつくるだけで十分です。最近は外国人を雇用している企業が増えてきましたが、障がい者も十分活躍できますし、何より長く働くことができます。
経営者としても、障がい者雇用のメリットはたくさんあります。多様性のある方と関わることで、自分自身が成長できます。今後も、全ての従業員が互いに切磋琢磨して成長できるような経営をしていきたいと思います。
報告2 河村 吉造
侑愛会は障がい者福祉を行う社会福祉法人で、幼児から高齢者までの一貫した支援を行っています。創設者・大場茂俊は1998年に亡くなりましたが、彼の掲げた理念と意志は引き継がれ、50年前に描かれた設計図のほとんどが実現されています。
遺志を継いで
大場茂俊は1923年に4人兄弟の長男として月形町に生まれ、父親は小学校の校長をしていました。旧制岩見沢中学校4年生のときに肺結核を患い、神奈川県に移りました。姉が難病で家計は苦しく、アルバイトなどをしながら生活費を稼いでいたそうです。その後、日大法文学部法律学科へ進学し、弁護士を志しました。卒業後、岩見沢に帰省する際、函館で偶然チラシを目にしたことがきっかけで、精華育英会の奨学生になります。それは1937年に漢学者の金子家綱氏が始めた奨学金制度で、返済義務も借用理由も一切必要なしで提供していました。この出会いが、大場の人生を変えていきました。
大場は金子氏と交流を深める中で、社会奉仕の尊さや救いを学ぶ機会を得ました。後に金子氏が病床に伏し、大場を精華育英会の後継者にと懇願、引き継ぐことになったのです。当時、大場は内閣物価庁に勤めていましたが、金子氏の他界に伴い退職し、函館で精華育英会の理事長に就任しました。
障がい福祉のはじまり
大場は育英会の資金を集めるため、製油所の創業、油脂工場の会社を開設するなど奔走します。折しも七重浜でイカがたくさん水揚げされるようになり、水産加工場で働く母親が増えていました。町内会や各方面から「保育園を作ってほしい」という要望が上がるようになり、大場に白羽の矢が立ちました。それを受け、1953年に旧上磯町に第1号となる七重浜保育園を開設します。家の一部を改修し、オルガン1つ、滑り台1つ、ブランコ1つのスタートで、初代園長は大場の父親でした。
1960年に父親が他界し、大場は社会福祉とその事業に専念することになりました。その後、障がい児の入園希望があり、「分け隔てなく受け入れる」という考えからその子を受け入れ、後の障がい福祉へとつながっていったのです。当時、妻の大場光(てる)が保育士の資格を取り、大場も大学に入り直して社会福祉主事の資格を取得したそうです。
また、卒園後の子どもたちのために、現在の学童保育のような「居場所」をつくりました。親の会も設立し、自分の園だけでなく道南の保育園もまわり、誰からでも相談を受けていました。当時、障がいのある子どもたちは北広島や岩見沢など、遠方の施設へ行くしかありませんでした。大場は、障がいがあっても生涯にわたって支援する総合施設が必要だと考えるようになりました。
侑愛会の誕生と軌跡
1963年、社会福祉法人の認可を取得し、侑愛会が誕生します。侑愛会は、「人と人との無私無償の慈愛を示す。報われるものを期待せず、この子らとある事によって、支援する自身も救われる愛でなければならない、ともに育ち合う社会を目指したい」という願いを込めて名付けられました。
1967年、知的障害者のための施設「おしま学園」(現「侑愛会」)を開所しますが、そこに至るまでには大変な苦労がありました。
町議会の認可は得たものの、地域住民の反対運動が起きたのです。大場夫妻は一軒一軒、家を訪ねて説明にまわり、地域で共に育つことの大切さを訴え続けました。小学校に近いというのが主な反対理由だったため、当初の予定地から川を一つ挟んだ敷地に建設を変更し、施設の建設が実現しました。
1971年1月、いよいよ就労のための実習が始まりました。雪の中を4時間かけて通勤し、1日6時間、15人の実習生が誰ひとり脱落することなく春まで働きました。そのうち7名が正式に雇用されることになりましたが、通勤に時間がかかるため、通勤寮「はまなす寮」を開設します。就労にあたり、身の回りの支援も必要になったため、通勤寮・実習寮・自立アパートを総称した「アフターケアセンター」としました。
1985年には診療所を開設し、福祉と医療の機能を併せ持つセンターができたことで、幼児期から高齢期までの一貫した支援体制の礎ができました。現在、障がい者入所施設が8カ所、通所施設7カ所、認定こども園・保育園・幼稚園は5カ所、診療所が2カ所、相談支援事業関係6カ所、グループホーム50カ所を運営し、職員は約850名、利用者は1000人以上の大きな組織になりました。
創始者・大場茂俊はこんな言葉を遺しています。「人間は未完成である。だから絶えず教育されなければならない。この事業に携わる人々は、皆執念の人でなければならない。執念によってこそ、この道は拓かれる」。
1998年に亡くなりましたが、私たちは歩みを止めることなく、信じることを信じるまま貫き、利用者に寄り添いながら支援を続けていきます。そして、大場茂俊の思いを後世へと伝承していきたいと思います。
報告3 田中 慎一
当機構は福祉とまちづくりの推進を行っている特定非営利活動法人です。福祉事業は18歳以上を対象とした指定障害福祉事業と、小学校1年生から高校3年生までを対象とした指定障害児通所支援事業を行っています。まちづくり事業として地域コミュニティ施設を運営し、会議室の利用などで収入を得ています。この建物は民主党政権時の地域商業再生事業で経産省の補助を受けて建てたものです。
私は2010年、当機構で就労継続支援B型事業所の指導員として働き始め、その後、放課後等ディサービスの所長として勤務していました。
2015年2月、私の前の理事長が金融詐欺で逮捕されるという事件が起こりました。
危機は逮捕前から
始まっていた
経営危機は逮捕前から始まっていました。事件の前年、理事長から「資金繰りが苦しいから職員の給与を10%カットしたい」という話がありました。「まだ打てる手はいくらでもある」と反論したところ、私に対する強烈なバッシングが始まりました。やっかい者となった私は、4月から損害保険部門へ異動になりました。
逮捕後にわかったことですが、資金繰りが厳しいとは表向きの話で、接待交際費や旅費は毎月約200万円、新聞図書費として毎月約30万円などが、飲食などの遊興費として費消されていました。法人のお金を勝手放題に使っていたのです。
経営圧迫のもう一つの大きな原因は、無計画な職員採用です。当初は職員40名、収益は1400万円で事業計画を立てていたにも関わらず、8月には職員が71名もいました。事業所は5つしかないのに、専門に監査をする指導監査課という部署ができていて、そこに十数名も職員がいたのです。
そうした独断と思いつきの経営に嫌気がさした役職者、有資格者を中心とした21名が、一斉に退職しました。当然、現場機能は低下します。そして、退職者の一部が別事業所を立ち上げ、利用者の引き抜きが始まりました。利用者や職員に不安が広がるなか、私は再び放課後等デイサービスの管理責任者へ異動となり、職員や保護者との面談を始めました。
逮捕後に起きたこと
逮捕について世間では、「多額の借り入れをしてセンターを建設し、経営が苦しくなった」「それで知事の公印を偽造し、偽って融資を受けた」「返済がある限り経営難は変わらない」「逮捕で信用が落ち、経営難に拍車」という見立てでした。センター建設の借入金は、当初の計画通り遅滞なく返済され、それ自体が経営を圧迫したわけではありませんが、新聞にはマイナス要素として書かれていました。
逮捕直後に特に大変だったのは、サービスの指定取り消しの回避、手形貸付と個人からの借り入れの返済交渉、収益減と返済、収支のバランス、過去6カ月にわたる社会保険料未払いの発覚、放課後等デイサービス利用者の相次ぐ解約、新規利用予定者のキャンセル、事実誤認の報道による信用不安です。
まずは職員一人ひとりと話をしました。何人残るかわからないと立て直しもできないからです。利用者の保護者とも全員面談をして、事業継続の具体的な手順と見通しを説明しました。行政や金融機関、年金事務所へは、具体的な方針と進捗状況の説明、滞納していた社会保険料の支払い、関係各所への説明、社会福祉法人へは支援の依頼で訪問しました。
「田中さん、こんな状況でよく理事長なんて引き受けたよね」とよく言われました。当時、36名の職員が残ってくれていました。私は現場上がりですので、戦術や戦略はわかっていました。だから、36名いれば立て直しはできると確信したわけです。社内では印章取扱規定や経理規程をつくり、入金や支払いの手続きは一人ではできないようにし、経理は複数名でチェックしないと決裁できない仕組みにしました。
職員第一主義で苦境を乗り越える
私が職員に言ったのは、顧客第一ではなく職員第一ということです。ロジックはこうです。「サービスを提供するのは職員自身だから、その職員が生き生きと働けるような職場でなければよいサービスは提供できない」ということです。そこで私たちは、「よいサービスを提供するために働きやすい職場環境を整備する」と打ち出しました。
2月に前理事長が逮捕されてから5月までに、経営理念や会社方針、就業規則、評価基準、業務改善、支出見直し、就業環境の整備、業務の簡略化、人員の再配置、残業抑制、有給取得の促進などに着手しました。有休は1時間単位で取れるようにし、上司の許可がなければ残業ができないルールにしました。事実上の定年を廃止し、65歳以降は1年ごとの更新で、健康で意欲がある人はずっと働けるようにしました。私も元はサラリーマンですので、給料や支払いが間に合わないという心配をしたことがありません。初めて、経営は大変なのだと思いました。
逮捕前の2014年の売り上げと比較すると、2015年は、マイナス1400万円でした。翌2016年には、福祉事業所の新規開設1、再開1を実現し、プラス1100万円、その後、利用者は順調に増え続け、2017年にはプラス6500万円になりました。もちろん、必死に頑張ってくれた職員あってのことですが、よいサービスを提供するには、まず「職員第一主義」という考え方は、間違っていなかったと思います。
今の課題は人づくりです。私は現在55歳ですので、どんなに頑張ってもあと20年ほどしかありません。人事考課制度も新設しました。リーダー職の評価基準の一つは、部下にとってプラスになっている上司か、部下の能力を十分に引き出せる上司か、真摯に仕事に向かう動機づけができる上司かということです。面談でもそのように話をしています。
この苦境を乗り越えられたのは、職員たちの頑張りと、たくさんの人の応援があったからです。いま思い返しても胸にこみあげてくるものがあります。これからも「あそこに行くと元気になるよね」と言われる福祉事業を行っていきたいと思います。
(2018年9月26日「函館支部9月例会」より 文責 佐合恵)
㈲マルトミ松前商店
代表取締役 松前 富弥
■会社概要
設 立:1981年(創業1971年)
資 本 金:500万円
従業員数:15名(うち障がい者4名)
事業内容:食品製造業(イカを主とした水産加工業)・海産物販売
社会福祉法人侑愛会
道南しょうがい者就業・生活支援センター すてっぷ
所長 河村 吉造
■会社概要
設 立:1963年
資 本 金:704,087万円
従業員数:850名
事業内容:知的な障がいをもつ乳幼児から、高齢の方々まで、各ライフステージに応じて支援(障害者入所施設、通所施設、認定こども園・保育園・幼稚園、診療所、相談支援事業関係等)
NPO法人日本障害者・高齢者
生活支援機構
理事長 田中 慎一
■会社概要
設 立:2007年
従業員数:69名
事業内容:障害児者福祉事業所の運営、まちづくり事業