【わが人生わが経営 169】ソネクション(株) 代表取締役 曽根 一 氏(74)(とかち支部)
2025年11月15日

苦境も前向きに捉え
人脈を生かして現状突破
「『目の前にどんな悲惨な状況があっても、自分がそれと一緒になることはない』。こんな話を同友会の会合で聞いた。当時社業が厳しく、死んだようだった自分の気持ちが救われた。前向きで居続けることで社員に掛ける言葉や姿勢も変わり、リーマン・ショックなどの影響で赤字に陥った経営を立て直すことができた」
曽根さんは旭川市で生まれ、出生後半年ほどで帯広市に移住。叔母が嫁いだ帯広市の建設業者、佐藤組に父の博氏が入ったことがきっかけです。そこで博氏はゼロから建設業のことを学び、あちこちに営業へ回りました。入社から4年後には独立を決意。1956(昭和31)年に曽根建設工業所を設立しました。同社は60(昭和35)年に曽根建設工業、2001(平成13)年にネクサスへと社名を変え、現在に至ります。
博氏は51歳で会長職に就き、現場を退きました。そして、曽根さんは35歳という若さで社長業を承継。時代はバブル景気の真っ只中だったこともあり、社長就任後の売り上げは、40億円から50億円へと上向きました。しかし、会社の前途にはバブル崩壊、リーマン・ショックの影響が待ち受けていたのです。
時は遡り、曽根さんは大学卒業後、東電環境エンジニアリングに入社します。配属先はコンピューターオペレーション。「コンピューター事情には精通しておらず、先輩たちにばかにされた」。どうやって見返してやろうかと考えついたのが、マグネットテープ運送状況の把握でした。
当時、ファイルデータはマグネットテープによるやりとりが主流。大企業にもなると、そのテープが毎日何千本と取引先や関連会社の間を巡っています。そこでいろいろな人に話を聞き、テープの動きをフローチャートにまとめました。また、24時間体制の職場のため、次の時間帯に働く人への引き継ぎ書などを整理。こうした成果が認められ、1年の間にチームの副班長、班長へと昇格しました。
その後、同社の新会社となる東京計算サービスへ移籍。総務、経理、労務関係を担当しました。ここでゴルフ部、野球部、テニス部、釣魚部、囲碁部など多数のクラブを創設。自身も複数のクラブに入り活動します。こうして苦境から脱するための努力やアイデア、人脈づくりなどを学びました。中小企業大学校の経営者コースをⅠ期生として受講するなど座学も積み重ね、1980(昭和55)年に曽根建設工業に入社。社業を引き継ぐことになります。
バブル崩壊後、売り上げはじわじわと減る公共事業予算とともに下がりますが、それでも30億円ほどの売り上げは維持していました。そんな中、帯広市内で閉鎖中のテーマパーク、グリュック王国を再生するプロジェクトが立ち上がります。ネクサスも一部工事を受注する見込みでした。見積もり上、25億円規模の改修工事を受注できることになり、このため他の建築の仕事は控えていました。
ところが2007(平成19)年、サブプライムローン破綻のあおりを受け、この仕事が立ち消えに。結局会社の売り上げは大きく落ち込み、赤字が数年続きました。
このような禍中でしたが、同友会活動でも曽根さんは頼りにされました。08(平成20)年、前任者の落合洋氏からの強い要請に応え、帯広(現とかち)支部長に就任します。社業は売り上げが厳しく経営との葛藤に気持ちが落ち込む中、4月から支部長としての活動をスタート。それから間もなくして、会員報告例会で冒頭の言葉を聴くことになるのです。
「会社は大変な状況だが、自分の身体は元気だ」。同友会の学びを力に、状況と自身を区別することで前を向くことができるようになり、協力会社との連携や経理業務の徹底など、社内外への呼び掛けも熱心に取り組めるようになった曽根さん。こうして数年後には黒字経営へ回復させ、17(平成29)年には息子の啓介氏に健全経営で事業を承継することができました。
同友会では12(平成24)年まで支部長を務めた後、15(平成27)年6月から副代表理事、そして18(平成30)年から23(令和5)年5月まで代表理事を務めました。
21(令和3)年にはソネクションを立ち上げ、会員のたい焼き茶房1店舗を買い取り経営するほか、道内のみならず海外の飲食店などに投融資して、芽吹くべきビジネスを支援。趣味の合唱も毎日のように続け、充実した日々を過ごしています。
| そね・はじめ=1951年生まれ、旭川市出身。専修大法学部卒。86年曽根建設工業(現・ネクサス)社長に就任。2017年に同職を辞任。 ソネクション=本社・帯広市。2021年設立、社長就任。たい焼き茶房札幌本店の経営や国内外投融資、不動産開発を手掛ける。 |
