【1世紀企業 87】 上田商会(登別市)
2025年08月15日

永続的な事業発展目指す
情報収集に努力と情熱

上田商会は1925(大正14)年に上田コンクリート工業所として滝川で創業し、今年100年を迎えました。
創業者の上田岩太氏は鳥取県隼村で生まれ、幼少期に家族とともに北海道へ移住します。果樹園やでんぷん工場を営む一方、道内で頻発していた水害や干ばつ被害に悩み灌漑工事の重要性を実感します。さらに関東大震災の教訓からコンクリート製建物への関心が高まりつつある社会情勢にも着目し、田畑や果樹園を売りコンクリート工場を設立しました。自身の経験から開発した潅漑溝用コンクリートをメインに道内各地に5拠点を構え、戦時色が濃くなるにつれ増産していた室蘭の日本製鐵(現新日本製鐵室蘭製鐵所)との大口取引にこぎ着けました。当時を知る2代目社長の邦男氏は「先代は10紙ほどの新聞を購読し、営業拠点を頻繁に訪問するなど情報収集に力を入れていた。その努力と情熱が上田商会の基になった」と話しています。
日本製鐵との契約後、岩太氏は36(昭和11)年登別市幌別町に営業所兼工場を開設し、上田商会と改めます。帰還した岩太氏の四男・邦男氏が、幌別工場の責任者や代表取締役専務を経て、68(昭和43)年2代目社長に就任。邦男氏が入社した50(昭和25)年頃は朝鮮戦争が勃発し、コンクリート製品の特需で工場はフル稼働していましたが、鉄やセメントなどの原材料が急騰し利益が伴わない状況でした。炭鉱最盛期の士別や名寄などに拠点を置いてきた同社にとって業績悪化の懸念はありませんでしたが、炭鉱の無い幌別地区で初めて苦戦を強いられます。そこで邦男氏は日高から長万部まで広いエリアで営業活動や情報収集を行い、54(昭和29)年の岩内町大火後の復興工事を機に業績も回復。顧客から信頼を獲得します。地域での評価も高まり、邦男氏は登別町教育長に抜擢され、登別高校や登別大谷高校の開校に尽力します。「人を育てる」という観点から女性社員を積極的に雇用し、電話応対や接遇などマナー教育にも力を入れていきました。
さらに邦男氏は、将来的な機械化や省力化を念頭に完全オートメーション化を模索し、俊朗氏らを米国や欧州視察へ派遣します。87(昭和62)年3代目社長へ就任した俊朗氏は、21世紀を見越した長期経営計画策定を担うプロジェクトチームを発足し、千歳工場の建設やカーボンファイバーを用いた外壁材、工期短縮に繋がるPCa製品の生産など建築部門にも挑戦します。
その後朗大氏が、2013(平成25)年に4代目社長に就任。創業以来培ってきた技術を、必要とされている地域にさらに広めようと、19(令和元)年に海外現地法人をインドに設立し、3年後に生産を開始しました。近年では製品の長寿命化や再生可能エネルギーを取り入れた持続可能な生産を目指しています。その技術を活かし、サウナ筐体「CUBERU(クベル)」など新たな製品開発にも取り組んでいます。
これからも社是「和」を重んじつつ、永続的な事業発展を目指し挑戦し続けます。