【わが人生わが経営 166】西山坂田電気(株) 代表取締役会長 西山 陽一 氏(77)(道北あさひかわ支部)
2025年08月15日

地域を支える担い手
仕事に厳しく人に優しく
西山さんは1948(昭和23)年に生まれ、幼少期を東川町で過ごしました。会社の前身は45(昭和20)年に父親が創業した西山電気商会。ラジオの修理や組み立て、販売などを営み、汽車を使って行商していました。そのような父親の姿を間近で見て、小学生の頃には「親父の仕事をやるんだろうなと思っていた」と既に将来を意識していたそうです。
58(昭和33)年には会社の移転に伴い、旭川市に移りました。西山さんは中学生のときに「電気屋になる」と決意。卒業時に「大学に行っても飯を食えるようにはならない」と手に職をつけることを選び、15歳で同社に入社しました。一方で、働きながら旭川工業高校定時制の電気科に通学し、柔道部に所属します。柔道部では2段まで到達するなど、部活動で培った礼儀作法や経験は、業界の人付き合いで生かされたそうです。現在も旭川工業高校の同窓会長を務めるなど「工業高校を出て良かった」と話します。
会社に入ってからは、父親の指示もあり、現場作業に徹しました。若手時代には道内だけでなく、配電関係の工事で道外への出稼ぎも経験し、数年ごとに関東や関西など全国を転々としました。会社は北海道電力の配電工事などが主でしたが、オイルショック以降は旭川市役所、土木現業所などの公共事業にも関わるようになり、仕事増とともに、改名や組織変更も進めました。
65(昭和40)年頃には道内でも最先端だった電柱を建てる建柱機を導入。さらにその後はコンクリート柱のメーカー・金網製作会社ともタイアップし、道内の公立高校で防球ネット、ゴルフ練習場の網の設置などにも施工の幅を広げることで、冬場の仕事も確保し、本州への出稼ぎも不要になりました。「道内を走り回り、仕事が楽しかった」と語ります。
社長に就任した91(平成3)年以降も引き続き現場に出続けました。社長になって初めて「人間関係の難しさに直面した」という西山さん。先代時代に本社を旭川市に移転させた経験から「その当時は父親も苦労したのでは」と思い返します。「父親から人に対する優しさを学んだ。もっと社長としての経験を聞いておけばよかったと後悔している」と話します。
99(平成11)年には、同じく旭川市内にあり、後継者が不在となっていた坂田電設工業と合併し、現在の西山坂田電気になりました。この合併によって「付き合いの幅が広がり、お客さんが増えた。相乗効果でうまくいった」と振り返ります。
2013(平成25)年には旭川市内で、倉沼ソーラー発電所や北都ソーラー発電所の発電を開始するなど、事業は電気工事にとどまりません。施工したのは両面の太陽光パネルで雪の反射なども活用できます。電力買取期間は20年で、半分以上の期間が経過した今、今後のことも考え始めています。「水素発電など新たな再生可能エネルギーもあるので、まだまだ勉強しないと」と意欲を見せます。
「電気業界も時代が変わり資格がないと仕事を始められないが、電気は匂いもないし目に見えない。触らないとわからない」と特有の難しさがあり、「電気業界はどんな現場にも最初から最後まで必要な業種。しかもただ電気をつけるだけでなく、何でも屋になっていかなければ」と地域を支える人材の必要性を語ります。
「業界に携わって60年以上になり、業界の中では古株。アドバイスを求められることも多くなってきた」と話す西山さん。これまでの人生について「他に何かできることがあったのではと考えることもあるけど、これで満足かな」と微笑みます。
会社は10月で80周年を迎えます。今後について「現場にいるとどうしても目先の話になってしまう。来年だけでなく5年先を考えないといけない。そのためにも今の健康を保ちたい」と笑顔を見せます。
同友会には1992(平成4)年に入会。本社屋の移転後に知り合いの社長から勧誘されたのがきっかけでした。「たくさん勉強をさせてもらった。人との関わるきっかけ作りが難しい中、知り合いがたくさんできて仕事にも結びついた」と話します。
2001(平成13)年から08(平成20)年には道北あさひかわ支部の幹事も務めました。諸先輩からは「人を大事にしていかないといけない。仕事には厳しくても、人には優しく。優しさがないと人はついてこない」ということを学んだと感謝しています。
にしやま・よういち=1948年生まれ、東川町出身。中学卒業後、前身となる西山電気商会に入社。旭川工業高等学校定時制電気科卒業。 西山坂田電気=本社・旭川市。1945年に東川町で設立。電気工事業を中心に、旭川市内での太陽光発電所の運営などを展開する。 |