【わが人生わが経営 159】(株)北央商事 代表取締役 行澤 勇氏(77)(札幌支部)
2024年11月15日
健康と暮らしに貢献
地域に求められる企業へ
「会社と同友会と商店街、3本柱でやってきた。地元である恵庭が好きで、恵庭のために何かしたいという思いが根底にある」
行澤さんは、1947(昭和22)年、恵庭市で四男四女8人きょうだいの三男として生まれました。戦後の時代で生活は苦しく、父親が戦地から帰ってきた後に結核を患い、家業の水田をきょうだいみんなで手伝いながら何とか生活してきたと振り返ります。その当時は国民皆保険制度ができる前だったため、医療費は全て実費負担。生活が苦しかった上、周りからも疎外され、暗い家庭だったと話します。地元の小学校、中学校に進学し、卒業後は「いち早く働きたい。手に職を付けよう」という思いから、札幌の職業訓練学校(機械科)に進みました。
その後、64(昭和39)年に中博光商店(現在のナカ工業)に入社し、65(昭和40)年からは札幌プリンス自動車(現在の日産プリンス札幌販売)に勤めました。そして同年10月、玉川組に入り、ダンプカーの運転手となり身を粉にして働く日々が続きました。光富運輸の創設者から「このままダンプに乗るなら、ずっとダンプに乗り続けなきゃだよ」とアドバイスされ、自分の将来を考えた末に、22歳でダンプを降りることを決意します。そして、23歳の時、妻の寿美子さんと結婚しました。この間、働きながら恵庭南高等学校(定時制)に通い、69(昭和44)年3月に卒業します。同じタイミングで、本間通信電設に入社し、北海道内の気象台アンテナの設置や、テレビ放送局の送電線業務などに携わりました。そして、70(昭和45)年からは親戚がいた東洋ファルマー北海道販売に勤め、医薬品の販売を始めます。75(昭和50)年には、完全歩合給だった協同医製薬品販売にうつりました。
「働くことは好きだったが、人に使われるのは好きではなかった。だからずっと自分で会社をやろうという思いがあった」と語る行澤さんは、80(昭和55)年に北央薬品販売を設立し、代表取締役に就任します。「医薬品はこれから伸びていく分野だと確信した。父親を病気で亡くし、医療の分野に興味があった。そして、人の役に立つ分野なのでもっともっと事業を大きくして、たくさんの人を幸せにできればと胸が高鳴った」と会社を設立した当時を振り返ります。
ジェネリック薬品の営業をしていた際に築きあげた医者との信頼関係を強みに調剤薬局を3店舗(現在は2店舗)運営し、その利益を活用して配置薬の事業を始めたといいます。これは現在も恵庭、千歳エリアで続けている事業の1つです。
その後、酒類卸売の会社である三栄商事の買収話を知り合いから持ちかけられ、90(平成2)年に買収し、代表取締役に就きました。2007(平成19)年に不動産事業を営む輩世を買収し、代表取締役に就任します。そして、行澤さんは15(平成27)年に北央薬品販売の代表取締役会長となった後、20(令和2)年に北央薬品販売と北央商事(旧・三栄商事)を合併し、代表取締役となりました。
たくさんの事業を手掛けてきた行澤さんですが、「地元で仕事をしたい」ということにこだわり続けてきました。「とにかく地元を良くしたい。地域に必要とされる仕事、企業を目指すことに重きを置いてきた」と力を込めます。
現在は、調剤薬局や配置薬事業、酒・飲料販売のほか、不動産事業、放課後等デイサービス事業なども手掛けています。「工業系、福祉関係の道に進んでいる孫たちがそれぞれの事業を継げるよう準備をしている段階。80歳までは元気に頑張ろうかな」と笑います。
同友会には1985(昭和60)年に「社長業を一から学びたい」と思い自ら入会しました。全道理事(2000―15年)や札幌支部幹事(00―04、08―15年)、札幌支部千歳・恵庭・北広島・長沼地区会会長(00―09年)などを歴任。2013(平成25)年に恵庭市中小企業振興基本条例が制定されたことが印象的だと語ります。
また、商店街の活動にも力を入れている行澤さん。1998(平成10)年に恵庭駅通商店街振興組合を発足させました。2005(平成17)年には恵庭市商業活性化協議会に参画し、商店街そして地域のさらなる活性化に向け尽力してきました。「とにかくお祭りが大好きだった」と語り、地域のお祭りが少なくなる中、今年8月には「第1回恵庭ふるさと公園へいわ盆踊り」を企画、開催しました。「地域のためにこれからも続けていきたい」と微笑みます。
ゆきざわ・いさむ 1947年生まれ、恵庭市出身。恵庭南高等学校卒業。2020年から現職。
北央商事=本社・恵庭市。調剤薬局経営や不動産事業などを手掛ける総合商社。前身の三栄商事は1959年設立。2020年に北央薬品販売と合併し、商号を北央商事に変更した。 |