【わが人生わが経営 157】(株)牧野 代表取締役社長 牧野 康則氏(72)(西胆振支部)
2024年09月15日
先を読み変化に対応
品質と知識で経営差別化
「さまざまな人に助けられてきた。感謝の積み重ね。よくここまでやってこられたと思う」
そう話す牧野さんは1952(昭和27)年、豊浦町で生まれました。北海道室蘭栄高校から神奈川大学法学部法律学科に進学し、75(昭和50)年に卒業。横浜市にある国際港湾輸送業の日新運輸倉庫の人事部で勤務を始めます。1年半ほど働き、仕事のやりがいに疑問を持ち始め、父の保氏が59(昭和34)年に創業した木材・建材販売業の牧野木材店に戻ることを決めました。牧野さんは「当初、父は帰ってくるなという方針だった。人生のプラスにはならないと言われた」と当時を振り返ります。
札幌市にある内装工事業の荒善(現アラゼン)で持ち前の負けず嫌いを発揮しながら2年ほど修行に励みます。「今になってみれば、この期間がなければ今の私はない。工事現場とは、経営とはどういうことかを学ばせてもらった」と話します。その後、78(昭和53)年に牧野木材店に入社。当時は、顧客から受注しても配送機能がなく、ライバル企業に配送を依頼しており、「この状態では会社の成長や私が考える会社経営が成り立たないと思った」といいます。そこでまずトラックを購入し、フォークリフトもない中、1人で重量商品を積み込み現場まで配送しました。これにより、自社で販売から配送まで対応できる体制を整えました。
28歳になった80(昭和55)年には、洞爺青年会議所に入会します。「青年会議所では、会社の規模に関わらず、一人の人間として評価してくれた」とし、経営者としての能力開発がスタートしたと回顧します。当時は午前4時に起床し、会議所に関係する仕事を午前7時までこなし、その後午後6時ごろまで自社の仕事を進め、夜はまた会議所の活動をするという生活をおくりました。
84(昭和59)年には牧野を設立し、95(平成7)年に社長に就きました。当時、輸入材の需要が高く、輸入材の直接輸入の方策探しに奔走。牧野さんは「修行先の荒善で学んだことは経営の差別化。木材屋として何ができるかを考えた時に一番は品質と木材の知識だった」と話します。木材の値段が品質に関わらず同じ値段で販売されていることに不満を感じており、流通する木材で一番品質の良いものを仕入れることと木材の勉強に注力しました。販売価格が高くてもその理由をきちんと説明できれば買ってくれることを実感。良い品質の木材を取り扱っているという評判が広がり、仕入れルートも良くなる好循環につながっていきました。
さらに取引先である工務店の経営改善のために何が必要かを徹底して勉強しました。その取り組みが他の木材屋と違うという評価につながり、顧客が増加。「時には人の商売に口を出すなとも言われましたが私は諦めなかった」とし、必死に勉強して熱意を伝えたことで多くの人の心を動かしました。
96(平成8)年に同友会に入会。「経営の仕方や考え方など私が聞きかじり・読みかじりで仕入れてきた経営の断片的情報を、同友会活動を通じて体系的な形にすることができた」と話し、経営や人生について考える転機となりました。2006(平成18)年には支部長に就任し、11(平成23)年まで務めました。支部長時代には「プロスポーツ選手は毎日の練習を怠らない。プロの経営者も勉強を怠ってはいけない」とし、向上心を持ち続ける重要性を説きました。
14(平成26)年には札幌のニヘイに木材販売など事業の9割を統合させるという大きな決断をします。牧野さんは「元より息子への事業承継は考えておらず、社員の中から後継者を育てることができれば、経営を移管するという考えはあった」といいます。そんな中、ある日自宅で突然意識を失い倒れたことが、事業統合を考えるきっかけになりました。いくつもの病院を回っても原因が分かりません。牧野さんは、倒れた事実に加え、社員を経営者に育てるには10年以上かかることを踏まえ、経営の継続を第一に考え事業統合を決意。統合後の現在も牧野さんはニヘイの技術顧問を務め、力を入れてきたオリジナル商品や木造中・大規模建築のノウハウが社員の姿勢と併せて評価され続けていることを実感しています。
72歳となった今も現状に満足はしていません。「常に先を見て、社会とお客さまは何を求めているのかを意識している。世の中はどんどん変化していく。変化に対応するため学び続けることが重要だ」と未来を見据えます。
まきの・やすのり 1952年生まれ、豊浦町出身。神奈川大学法学部法律学科卒。78年に入社し、95年から現職。2級建築施工管理技士、学芸員資格(文化財学)を有する。
牧野=本社・豊浦町。1959年創業。不動産管理業や経営コンサルタントなどを手掛ける。 |