【1世紀企業46】水野染工場(旭川市)
2018年10月15日
「職人魂」守り挑戦続ける
目指せ“印染パーク”実現
伝統技を受け継ぎながら新しい技術を積極的に取り入れ、半纏や法被、大漁旗、のぼりなどオーダーメイドの印染製品を製作している水野染工場。近年は浅草に出店し、海外進出も視野に入れるなど、創業200年に向け、さまざまな挑戦を続けています。ことしで創業111年を迎えた同社は、一人の男性が職人魂を胸に秘め、旭川にやって来たところから始まります。
創業者の竹次郎氏は1871(明治4)年、富山県で染物屋を営む水野吉右エ門氏の次男として生まれました。後を継いだ竹次郎氏は懸命に働きましたが、凶作や大洪水に見舞われるなど貧しい生活が続いたそうです。
そのような中、知り合いの呉服屋から一通の手紙が届きます。「旭川は軍都として繁栄しているが、紺屋がない。将来有望な街なのでこちらに来ないか」。旭川に活路を見いだした竹次郎氏は、妻のヤスさんと2代目となる久造さんを伴って移住。中心部の3条9丁目に創業したのは1907(明治40)年2月のことでした。
時は流れ、23(大正12)年、久造氏が2代目に就任します。寝る間も惜しんで着物や浴衣、呉服店からの紋入れなど多くの注文をこなし、業績は右肩上がりに。大勢の職人や弟子を抱え、旭川でも有数の企業へと成長しました。
しかし、第2次世界大戦後の貨幣価値暴落で、築いた財が無の状態に。着物と食べ物を交換してもらうような苦しい状況が続きますが、軍服の染め直しを手掛けたり、和服から洋服へ変化していくことを見据え、商売の中心を半纏、のれん、旗の染色へシフトするなど持ち前の商才を発揮します。再び軌道に乗った会社は59(昭和34)年に就任した3代目・篤司氏がさらに発展させ、97(平成9)年に現社長の弘敏氏へ受け継がれます。
その後は、閑散期となる冬場の稼働率を上げるため、既製品を扱う「染めの安坊」が2004(平成16)年、浅草にオープン。当初はかなりの苦労があったようですが、弘敏氏は「北海道のイメージが良いのか、周りから好意的に見られて救われた」と当時を振り返ります。
今後は、海外への進出と原料となる藍の栽培から、染色、販売という一気通貫的なビジネスモデルを実践する“印染パーク構想”を思い描く弘敏氏。歴代社長から受け継いだチャレンジ精神を基に、「夢のある会社にし、200年企業を目指していきたい」と力強く語ります。