【わが人生わが経営 92】(有)今野電工 代表取締役 今野慎也さん(くしろ)
2018年10月15日
小企業は経済の基盤
地元に根差した条例実現
「中標津の中小企業を良くするためには、本州や札幌とは違う、地域に根差した条例の整備が必要と考えました。域内のお金を回し合うにはどうしたらいいかを仲間といろいろ話し合っていたあの頃は、毎日が楽しかった」
今野さんは1947年、清里町緑に生まれます。父が木工場でのこぎりの目立て職人として働いていた関係でその後釧路市に転居。機械に興味があったので、進学先は釧路工業高校機械科を志望していました。ところが中学の恩師には、当時、より偏差値の高かった電気科を強く勧められます。結果として、これが現在へとつながる最初の転機となりました。
66年に卒業し、同級生の実家が経営していた高部電気(本社・中標津)に入社。木造住宅の電気設備工事などに携わりました。中標津周辺は今のように電気があって当たり前の時代ではなく、住宅が完成するたびに「きれいだね」「明るくていいね」と施主から喜ばれたのだとか。今野さんは、これが若い頃の原動力になったと振り返ります。
その後、拠点を移した札幌では「中標津では経験できなかった鉄筋コンクリート造の大規模な現場が多く、刺激を受けた」そう。ちょうど国内初の冬季五輪開催を目前に控え、建設ラッシュに沸いていた時代でした。この時期に結婚もしています。2年が過ぎたころ再び前社から声が掛かり、釧根管内に戻ることになりました。
札幌での経験も踏まえてこれまで以上に活躍。在籍中、同社が加入していた同友会の活動に出席する立場にもなります。これが同友会との出会いでした。この頃、釧路から中標津へ両親も呼び寄せています。
独立したのは90年4月、自身が42歳の時。「いつかは自分で会社を持ち、地域の役に立つ電気屋になりたい」という夢を実現するためでした。前の会社でなじみがあった同友会には翌年加入しました。経営の先輩たちとの接点が持てること、「飲みニケーション」を通じていろいろな話を聞けることが同友会の大きな財産だといいます。
同友会では2004年4月から4年間、中標津町、別海町、標津町、羅臼町をエリアとする南しれとこ支部の支部長を務めました。この時代の思い出は、なんと言っても中小企業振興基本条例制定に向けて活動したこと。05年の同友会全道総会で、活動方針に中小企業憲章・中小企業振興基本条例制定運動強化が盛り込まれたことが契機になりました。
支部の幹事会に諮り、エリアの中核である中標津町に条例制定を求めることが決定。その際、「札幌で考えられた仕組みは、経済構造も規模も違う中標津にはなじまない」と考えました。小企業こそ地域の経済や雇用を支える基盤であり、行政を交えて地域に根差した経済活動を展開しようというヨーロッパ小企業憲章の趣旨からヒントを得て、使い勝手の良い補助金や制度の創設など環境整備や、地域のお金を地域内で循環させることを目指す条例の必要性を訴えたのです。
もちろん、すんなりと進んだわけではありません。初めて町に申し入れたときは、相手にされませんでした。しかし、当時理事を務めていた中標津町商工会とも力を合わせて粘り強く活動を続けたことが、町長交代もあって町を動かします。条例施行は10年4月のことでした。この間、別海町内の支部会員で組織する別海地区会も別海町に条例制定を働き掛け、こちらは1年早く施行にこぎ着けました。
16年4月に釧路、南しれとこ、根室の3支部が統合され、くしろ支部となってからは、同支部南しれとこ地区会幹事を務めています。
「人・住まい・街をゆたかに」をスローガンに掲げる同社は、建築付帯の電気設備工事が主力。現在は現場に出ることはなくなったものの、経営には生涯関わっていく考えです。当初の志望とは違う道を歩んだ形にはなりますが、「15、16歳のあんちゃんが機械科に入りたいなんて、どれだけ先を見通せていたのか。あのとき電気科を選んで良かった」と当時の恩師に感謝しているそうです。
多くの仲間に恵まれた中標津は、一通りの生活基盤がそろい、規模も適度でとても住みよい街と感じています。プライベートでは妻と2人暮らしですが、嫁いだ長女、専務を務める長男とも町内に在住。孫4人は全て女の子で、進学などで現在は札幌に住んでいる子も含めて全員が、将来は中標津に住みたいと話しているといいます。「そのうちひ孫もできるのでは」と笑顔を見せてくれました。
【プロフィール】
こんの・しんや 1947年11月5日、清里町生まれ。サラリーマン生活を経て、90年4月から現職
今野電工=本社・中標津町。1990年に創業。建物一般の付帯電気設備工事など。資本金500万円。社員3人。