【わが人生わが経営 147】(株)トーシン 取締役会長 宮本 建治氏(74)(とかち支部)
2023年10月15日
失敗も人生の肥やし
カプセルトイ文化を定着
「継続は力なりと変化への対応が私の商売の理念」
宮本さんは1949(昭和24)年、大樹町で生まれました。高校卒業後、札幌の自動車関連会社に勤務し道内各地を転勤。釧路で保険会社、建設業、タクシー運転手など転々とし、自分で商売をしたいと思い、帯広に転居します。74(昭和49)年、25歳の時にアメリカ製のポップコーン自動販売機を売り始めました。翌年に東信商事を設立。アクセサリーやライター、ミニカーなどを箱詰めした自動販売機をレンタルしました。その後、バンダイのカプセルトイ自販機のベンダーになり、帯広市内の商業施設に設置します。
試しに1台置くと、わずか1週間で中が空に。その後、ウルトラマン怪獣消しゴムが流行り、続々と売れていきました。「なぜカプセルトイかと言われても、あの時は飯を食っていくために何とかしなくてはという思いだけだった」と振り返ります。
しかし、カプセルトイの売れ行きは中身次第。思い返すと「商材は今ほど種類がなく、売り上げは不安定で、食うや食わずの時代が長かった」と話します。その中でゲーム機やプリクラ機のレンタルを手掛けるなど、経営の安定化へ尽力します。
カプセルトイは時代と共に商材が多様化。「かつては2カ月に1度、新商品が1種類発売される程度だったが、毎月数種類は出るようになり、売り上げも増えた」といいます。この間には「全道展開に挑戦しよう」という思いから、87(昭和62)年、札幌に営業所を構えました。91(平成3)年にはトーシンに社名を変更します。
その後、空きスペースに置かせてもらっていたカプセルトイを、1カ所に集めた店づくりができないか構想します。しかし、実現するにはまだ商材が足りませんでした。「当時は小学生男子向けの商品が全体の8割を占めていた。おもちゃ屋から脱皮できていなかった」といいます。
商材が多様化する中で、大人をターゲットにした商材が世に出てきます。加えて自社でも商材を考案します。道内の土産物を精巧に再現した「北海道フィギュアみやげシリーズ」や北海道日本ハムファイターズ、東洋水産の焼きそば弁当など道内企業とコラボしたグッズを展開。中でも札幌市10区それぞれの特徴を記した「区民限定バッジ」は好評で、札幌以外の都市や道外の地域をモチーフにした作品も誕生します。
2018(平成30)年には、札幌市の4丁目プラザにカプセルトイ専門の実験店舗を出店。店名はカプセルのCと惑星のプラネットの組み合わせから「#C―Pla(シープラ)」。子どもだけでなく大人からも人気を集め、手応えをつかみます。19(平成31)年3月にはカプセルトイ専門店「#C―Pla」がオープン。多くのお客さんに受け入れられ、その盛況ぶりに店舗開発者からも驚かれました。
店舗デザインは地域の特性に合わせています。帯広市はお菓子、千歳市は空などさまざま。「今やカプセルトイのコーナーはいろいろあるが、テーマを掲げてエンターテインメントを意識しているのは当社だけ。名指しで出店要請してもらえることも多い」
近年はインバウンド効果で外国人観光客にもカプセルトイが人気です。「特にアジア人の人気が高い。カプセルトイ文化を日本に定着させ、大きく広げたい」と考えています。
20(令和2)年以降、世間はコロナ禍で多くの店舗が休業や閉店に追い込まれました。その中で宮本さんは「ピンチは裏返せばチャンス」と捉え、道外への進出を加速します。渋谷や原宿、心斎橋など人通りの多い空きテナントに店を出し、23(令和5)年7月に開店したMARK IS みなとみらい店で100店舗目を達成。現在は東北、関東、中部、関西、中国、九州と広く店舗を構えています。
1978(昭和53)年にカプセルトイを始めてから45年が経ちます。事業を始めた当時を振り返り宮本氏は「隔世の感がある。結果的に文化になったが、途中でいつ消えてもおかしくなかった。どうすれば企業が続いていくか。『これは!』という商材があれば取り扱った。失敗もあったが、感覚を研ぎ澄まし、社会を見て、何とか生き延びてきた」と語ります。
同友会活動では、とかち支部独自の人生大学によく参加しています。お酒を飲みながら、経営者の思い出話を聞くのが楽しいといいます。「人の話は面白い。聞いた経験や考え方は自分の人生の肥やしになる」と笑います。
みやもと・けんじ 1949年生まれ、大樹町出身。大樹高農業科卒。2019年6月から現職。 トーシン=本社・帯広市。1975年設立。カプセルトイ専門店「#C―Pla」の運営やマシンレンタルなど。資本金4000万円。従業員数572名(パート含む)。 |