【わが人生わが経営90】(株)ダイヤ硝子店代表取締役 野呂 宏子さん(76)
2018年08月15日
夫の信頼と技術継ぐ 地域を支える商品開発も
「主人は技術と信頼だけは残していってくれました。それが実ってなのか、おかげさまで地域の人に当てにされ、ここまで会社を続けてくることができました」
1942年、満州に生まれた野呂さんは戦争の激化を受け、3歳の時に母の実家があった美瑛町に移り住みます。実家は水田や畑作を営むほか、牛、馬、羊も飼育。豊かな自然が遊び場でした。
幼い頃から運動が得意で、旭川西高校に進学してからはバレーボールに熱中します。同校は全国大会常連の強豪校。厳しい練習に耐え、1年生から試合に出場し、チームの要であるアタッカーを任されていました。高校卒業後は美瑛の農協に勤めます。
結婚を機に68年、富良野市に移ります。夫の政夫さんは前年、富良野でサッシ工事やガラス工事といった窓全般を取り扱う、ダイヤ硝子店を創業していました。建築会社に勤務していた経験から「これからはガラスの需要が大きく伸びる」と展望し、会社を起こしたのです。
読みは当たります。アルミサッシが普及し始めた頃で「回りきれないほど仕事がありました。当時、富良野にはガラスの専門店がなく、主人は現場で取り付けることができる職人だったこともあって、とても重宝されていたようです」と振り返ります。
初めは電話での注文受けをしていた野呂さんも、忙しい様子を見て作業を手伝うようになっていきます。サッシはメーカーから部品の状態で運ばれてくるため、自分たちで組み立てる必要があります。「それまでガラスを切ったこともありません。見よう見まねで始めました。夜のうちに私がガラスを切り、サッシを組み立てておいて、翌朝早くに主人が現場へ配達に行く。そうした役割分担ができましたね」
夫婦二人三脚の頑張りで経営はすぐに軌道に乗り、74年に自前の社屋を新築。創業から10年ほどで社員を雇うまでに成長しました。雇用に当たっては「安定した暮らしで社員の家族を安心させてあげたい」と考え、早い時期から通年雇用を導入します。
幸せな日々を突然の悲劇が襲います。86年2月、政夫さんが若者の無謀運転に巻き込まれ、亡くなったのです。当時、長男はまだ高校1年生。計り知れない喪失感に包まれました。
会社を存続できるのか。悩む日々の中で、2人いた社員から「会社を続けましょう」と背中を押されます。「既に手を掛けていた仕事があり、その仕事を納めなければお客さんに申し訳ないと思っていました。そして、その2人は20代と若く、職人で技術を持っていたので3人でやっていくことを決意できました」
会社を引き継いでから数年は「何をやっていたのか思い出せない」ほど必死でした。しかし、苦労は実を結び、途切れなく仕事の依頼が舞い込むようになっていきます。それを実現したのは夫から受け継いだ思い。「信用が第一だから、誠意を持ち、誠実な仕事をしようと言い続けてきました。主人は技術と信頼で売っていました。うちにはそこしかありません」と言い切ります。
創業から50年がたち、窓も変わってきました。「今は断熱性能が追求され、全て樹脂サッシ。2重ガラスどころか3重ガラスも出ています。新商品が発売されるサイクルも早くなっていて、お客さんに良い提案をするためにも勉強の毎日」と語ります。
同友会には97年に入会しました。野呂さんと同じく、亡くなった夫から会社を引き継いだ女性経営者に誘われたことがきっかけです。女性部会「野花の会」に入るほか、2009年から年には富良野地区会幹事も務めました。「同友会に入り、何人もの女性社長に出会えたことは財産。彼女たちと会うと自分も頑張ろうという気持ちになれる」と言います。
日本全体を覆っている少子高齢化、人口減少問題は地方ほど深刻です。富良野の人口は最盛期の65年に約3万6000人を数えましたが、約2万2000人まで減少しています。
富良野商工会議所の工業部会に所属し、最近は帯広商工会議所との共同商品開発に携わっている野呂さん。「アイデア出しの段階ですが、富良野と帯広はうまい具合に産品が異なっていて、どんな商品が生まれるか楽しみ」とし、「富良野はおかげさまで知名度があり、最近は外国人をはじめとする観光客の増加で良い風が吹いています。商品開発がより良い風を吹き込む一助になれば」と話す目に若々しさが宿っています。
【プロフィール】
のろ・ひろこ 1942年3月31日、満州生まれ。夫の後を継ぎ、86年から現職。
ダイヤ硝子店=本社・富良野市。1967年に創業。サッシ工事、ガラス工事、室内建具、風除室工事、各種網戸など。資本金1000万円。社員4人。