【わが人生わが経営 136】 (有)夢がいっぱい牧場 会長 片岡 文洋さん(76)(とかち支部)
2022年10月15日
二人三脚で夢を実現
牧場経営に揺るがぬ信念
「大樹町で畜産農家を始めたとき、反対する声も多かった。酪農向けの土地柄ゆえだと理解したが、肉牛飼育はずっと夢だった。このチャンスを逃したくなかった」
片岡さんは1945(昭和20)年、京都府で4人兄弟の末っ子として生まれます。もともとは医師を目指して勉学に励みますが、高校2年生の夏、模擬試験の点数が志望校のボーダーラインに届きませんでした。教師からも「今のままでは医学部進学は難しい」と告げられます。「まだ1年時間があったのに、素直に鵜呑みにしてしまった」と回想します。
畜産農家を目指すきっかけは、それからすぐやって来ました。当時、駒ヶ岳の麓で牧場を経営していた曽田玄陽氏により、フランス原産とされるシャロレー牛が日本に初めて入ってきました。片岡さんは、ふと見た雑誌の記事に衝撃を受けたといいます。「医師の夢がなくなって、ぼんやりとしていた頃、これだ!と思った」
新たな夢を見つけた片岡さんは、京都大学農学部に進学。ただ入学してみると「部活の相撲とアルバイトに熱心だった」と笑います。当時は学生運動の最盛期でした。「今考えれば、若さほど強烈なものはない」と、政治への不満を行動に移すエネルギーは強く記憶に残っているといいます。
卒業が近づくと、片岡さんの恩師に北海道の町村から畜産農家への誘いがあります。その中で、片岡さんは大樹町萠和の現牧場地を選びました。「市街地に近い場所を選んだだけ。実際、周りは酪農家ばかりで、畜産には向いていない土地だった」と思い返します。
大学卒業後、大樹町に移住。現牧場地の購入費用を持ち合わせておらず、大樹町農業協同組合に協力を求めました。「経営者になってみて、自分の行動がいかに突飛だったのか実感した」と語る通り、移住したばかりで周辺農家との関係性も乏しく、反応は厳しいものでした。そこで片岡さんは「私の意欲を担保にしてくれ」と当時の組合長を説得。熱意が伝わり、結婚して身を固めることを条件に融資してもらいます。
こうして、妻の芙美子さんと夢がいっぱい牧場を開業。二人三脚で経営者の道を歩み始めました。最初は乳牛1頭を購入し、地道な商売で資金を調達します。「経営のノウハウはなく、社会に飛び込んだ。資金の回し方など分からないことだらけだった」と振り返りますが、その中で支えになったのは妻の存在でした。芙美子さんも農家への憧れがありました。片岡さんは「その事実を見合いの席で聞いて驚いた」といいます。そして、積極的に参画してくれたことに感謝しました。35㌶の敷地に最大で約700頭の肉牛を飼育するまでになりました。
一つの転機になったのが、ホルスタイン雄牛の肉牛ブランド化実験でした。当時は技術がなく、乳牛としても肉牛としても価値がない雄牛は廃棄されることも多かったのです。そこでホクレンが片岡さんに実験を依頼。資金を預かって取り組みを進めました。
夏は放牧、冬は牛舎飼育を2年間実施。特に夏場は夜中に脱走することも多く、連絡が入るたびに各方面へ謝罪しに回りました。しかし、努力が実って出荷、わずかではありますが利益の創出にも成功します。「今では当たり前になったが、最初の技術が確立されたからこそ今がある。成果を誇りに思う」と語ります。
農業の変革期を走ってきた片岡さんは、大規模化やAI農業にも理解を示します。ただ経営者として周辺農家などと関わるようになり、自身が目指す「畜産農家像」が明確になりました。農薬を使わず安心して口にできる肉づくりこそが片岡さんの信念です。周りに何を言われても、自身の目が行き届き、手間暇かけて丁寧に飼育する意味を見出しました。これまで歩んできた道に後悔はありません。
現在は牧場経営を息子の豪さんに引き継ぎ、自身は会長として見守ります。「絶対に口出しはしないと決めた。ただどうしても、息子と半年に一度はケンカしてしまう」と笑います。
これまでに全国から実習生を1000人以上受け入れ、若者育成にも注力しました。「若いうちにいろいろな世界を知ることが大事」と訴えます。
同友会には1987(昭和62)年に入会。異業種交流ができる同友会の活動は魅力的で、6次化に取り組むきっかけをつかむなどこれまでにも多くの知見を得ました。
支部農業経営部会の3代目部会長(93―94年度)や、大樹地区会の会長を務めました。
かたおか・ふみひろ 1945年生まれ、京都府出身。71年に大樹町へ移住し、夫婦で牧場経営を始める。 夢がいっぱい牧場=本社・大樹町。1971年開業。肉牛生産、加工、販売。従業員5名(アルバイト、パート含む)。資本金300万円。 |