【わが人生わが経営 165】(株)リベラル 代表取締役 島貫 法幸 氏(76)(札幌支部)
2025年07月15日

会社と共に人材育成
「自分流」を貫き事業展開
「大事なのはお金でもシステムでもなんでもない。人材がしっかりしていないと会社は上手くいかない」
島貫さんは1949(昭和24)年に遠軽町で9人きょうだい(5男4女)の末っ子として生まれました。「一番上の兄とは年が20歳以上も離れていたため喧嘩することもなかったが、1歳違いのすぐ上の姉とはよく喧嘩した」と笑い、「暗くなるまで学校で遊び、家に帰ると馬などの家畜を納屋に入れ、世話をすることが日課だった」と振り返ります。
中学を卒業すると、札幌で大工の丁稚奉公を始めました。お小遣いは1カ月5000円。「2日に1度の銭湯と、風呂上がりに飲むコーヒー牛乳が楽しみだった」と懐かしみます。3年ほど修行を重ね、何棟も自身の手で家を建て、技術を習得したことを確信。「技術を身につけ、魅力が感じられなくなってしまった」と大工を辞め、そこから放浪の旅が始まります。技術を覚えたら次の職に就き、また覚えたら次の職に就くことを繰り返し、職を転々とします。
そんな島貫さんですが、22歳で結婚することとなります。蛇の目ミシン工業(現ジャノメ)に就職し、完全歩合制の営業の仕事を始めます。「1カ月に3台しか売れず、給料は1万円ほど。これでは生活できない」と一念発起。店の軒先を借りてミシンを使ったデモンストレーションをすることを思い付きます。「売る前にお客さんとコンタクトを取ることで、ニーズを深く知ることができた」といいます。半年後には1カ月170台を売るようになり、支店長に昇進。「2店舗目の岩手県久慈市の支店では、方言に苦しんだ」と振り返ります。札幌の店舗に異動となり再び札幌に戻ってきた島貫さんですが、次の転勤が言い渡されたタイミングで会社を辞めることを決めます。
「食べていかなければならない」と、次に始めたのは居酒屋でした。知り合いが貸してくれた店舗を活用し、月寒でスタンドバーの経営を始めました。「すすきのから流れてくるお客さんもいて朝の7時くらいまで営業した」と笑います。5年程働いた後、居酒屋を辞め、札幌の旧モデル運輸に転職。またここでも「働くのは5年間」と決め、働き始めたといいます。
5年間働く中で、「ただモノを運ぶだけでは駄目。それだけでは淘汰される」と思った島貫さんは、これからの物流には、倉庫業務や荷受け業務などが重要になってくると確信し、その業務に特化した会社を立ち上げることを決意します。
1993(平成5)年にリベラル総合物流を設立します。運送・引っ越しなどの仕事を主に、作業請負も始めました。その後、24時間レスキューや産業廃棄物の収集運搬、人材派遣、警備、スチールサッシ工場など幅広く事業を展開していきました。
2002(平成14)年にはリベラルに社名変更し、法人化。札幌市北区篠路町に社屋も自ら建設しました。「〝自分流に自由にやる〟という思いを込めて、リベラルという社名にした」と語ります。
10(平成22)年に、岩田地崎建設から自動車整備工場の大同自動車工業を引き受けました。また、17(平成29)年には旧原田電装を引き受け、22(令和4)年にクロスワークスに社名変更。23(令和5)年にも昭和サッシ工業を引き受け、それぞれグループ会社として現在に至ります。
「この仕事をやりたいと思って始めたものではなく、知り合いからやってほしい、手伝ってほしいと言われ始めたものばかり」と笑います。
同社では、アルバイトから正社員へとなる採用スタイルが多いといいます。「会社とともに人を育てることを重視している。業務内容は多岐にわたるので、適材適所の配置が肝心」と会社の方針を語り、「事業承継については分社化も含めて考えていかなければならない。引き続き、人材育成を第一に注力していきたい」と力を込めます。
同友会には、2005(平成17)年に武田運輸の武田秀一社長に紹介され入会しました。東地区会幹事や地区会副会長を務めたほか、地区会の社員教育プログラム「学びすとe倶楽部」の担当幹事、世話人として積極的に参画してきました。1000人例会や300人例会がとても印象に残っているそうです。
「成功話だけでは参考にならない。経営者の苦労や失敗談を聞けるのが同友会の魅力だよね」とほほ笑みます。
しまぬき・のりゆき=1949年生まれ、遠軽町出身。中学卒業後に働き始め、93年独立。 リベラル=本社・札幌市。1993年にリベラル総合物流を設立。2002年リベラルに社名変更。引っ越し、運送、建築請負、警備などを手掛ける。従業員数95名(アルバイト220名)。 |