【わが人生わが経営 153】(株)池上商店 取締役相談役 池上 晃平氏(80)(しりべし・小樽支部)
2024年05月15日
縁のおかげで100周年
困りごとをいち早く解決
「4代、100年にわたって商売を続けることができ幸せ。それはご縁があった人たちのおかげ。今後も地域に密着し、住宅関係で困っている人を助けたい」
〝住まいのホームドクター〟のキャッチフレーズで知られる池上商店。池上さんは1943(昭和18)年、後に2代目となる昶(とおる)氏の長男として生まれました。
会社がある小樽市奥沢にはゴム製品製造の三馬ゴム(現・ミツウマ)をはじめ、日本酒、醤油と食品関係の工場が多く立地。住宅需要も旺盛で同社は家庭金物や建築金物、機械工具を販売し、成長の波に乗っていました。
幼いころから跡継ぎと期待され、ものづくりに関心があったこともあって「自然とこの道に向かった」と言います。小樽潮陵高校を卒業後、卸の木村金物店(現・キムラ)で2年間修行。金物のイロハを学び、64(昭和39)年、池上商店に入社しました。
昭和40年代に入ると、会社は建築金物などの販売に加え、ガス関連事業に参入します。都市ガスが普及し始めた頃で、鋳物コンロのみだった器具からテーブルタイプのガス台や瞬間湯沸かし器、炊飯器などの販売と共に各種配管工事を手掛けていきます。事業の一つの柱と位置付け、同社を含む市内15社で販売拡大を図っていましたが、市場に一定程度行き渡ったことで次第に取り扱い量は減少。危機感が募っていきます。
並行して会社周辺の状況も変化します。日本酒の消費量低下や大手スーパーの台頭などにより、酒造メーカーや食品工場が撤退。これに伴い、建築金物や機械工具が振るわなくなってきたのです。
この頃、池上さんは会社の将来を案じ国内外で視察を重ねていました。ラスベガスの全米ホームショーで、工場で生産した家をそのままトラックで運ぶ様子に驚き、沖縄国際海洋博ではキューブ型の部屋を運搬・現地で組み立てる姿を見て「今後、住宅建設は大手のハウスメーカーが主導権を握るだろう」と確信します。
最盛期、奥沢だけで数十軒あった建築会社は徐々に勢いを失っていました。そこで、建築会社や工場を相手とする下請け取引から元請けへの転換を決意。昭和50年頃から必要な免許を取得し、ボイラー関係を皮切りに、セントラルヒーティング、ロードヒーティング、エクステリア工事に取り掛かり始めます。工事をメインとする会社として第2の創業となりました。
95(平成7)年には社長に就任。「数十年住む家には必ずリフォームが伴う。従来からボイラー関係をやってきた。ストーブを含めてアフターが求められる」として業容を拡大。大工の棟梁を迎え、台所、浴室、トイレ、外壁、エクステリア、さらには玄関錠の解錠とニーズに応えてきました。長く経営に携わる中で「大手と差別化するにはスピードが必要」と考えてきました。豊富な在庫を常に用意し、職人も抱えることで「例えば、ボイラーが壊れたと午前に連絡が来たら、午後には取り付けできる体制を整えている」と自信を見せます。
工事の出張範囲を片道30分以内とあえて絞っていることも特長です。「修理に1、2時間かかるケースがあり、それ以外の部分でお客さんを待たせなくない」と狙いを話します。根底にあるのは「サービスは値引きだけではなくスピード。困っている人をいかに早く助けられるか」の理念です。
2019(令和元)年、長男の匠氏に社長を託しました。ものづくりに携わってほしいとの願いを込めて付けた名前。まさに〝親子鷹〟となりました。匠氏はコンピューター関係に明るく、顧客情報を一元管理する仕組みを構築して柔軟な対応を取れるようにしているほか、高齢化を踏まえて家電製品の販売・配達・設置、防犯工事とサービス内容を強めています。23(令和5)年9月には創業100周年を迎えました。
地元に密着してきたからこそ、地方の衰退を肌で感じています。最大20万7000人を数えた小樽市の人口は、10万5000人(3月末)まで減少。活路を開くには中央の人材を振り分けるような政策が必要とみるほか、近くに新幹線の駅ができることから「きれいな水を生かして、ものづくり企業がまた集積したら素晴らしい。それを新幹線に乗せて、道外へと売り込めたら」と情熱は尽きません。
同友会には知人の勧めで1983(昭和58)年に入会しました。「異業種の集まりなので、あの業界ではこのようなことをしているのかと参考になる。同友会の仲間たちのおかげで素晴らしい人生が送れている」と微笑みます。
いけがみ・こうへい 1943年生まれ、小樽市出身。64年に入社し、95年に社長就任。2019年から現職。 池上商店=本社・小樽市。1923年創業。ボイラー、給湯器など住宅設備機器の販売、施工修理、内・外装含めたリフォームを手掛ける。 |