【わが人生わが経営 141】(株)シオン 取締役相談役 関口 ひろみ氏(74)(札幌支部)
2023年04月15日
会社は人間形成の場
先代の考え方を引き継ぐ
「人としてどう生きるか。人は人生の半分を会社で過ごす。その会社を仕事するだけの場にするのではなく、人間形成をする場として大事にしたい」
関口さんは1948(昭和23)年に札幌市で2人姉妹の長女として生まれました。本が好きだったため高校生の頃は記者や医者などの職業に憧れを持っていたといいます。しかし、高校卒業後は母の勧めもあり東京音楽大学の声楽科に進学。そして、大学卒業後は放送関係の仕事に就き、東京で社会人生活をスタートさせます。
主にラジオの番組製作に携わっていた関口さん。15~30分番組の原稿を月40本書いていたといいます。街を歩いていても、考えるのは仕事のことばかり。至る所にアンテナを張り巡らせて、ネタになりそうなことはないかと常に探していたそうです。「当時は、3日間徹夜は当たり前。食べることも忘れるくらいだった」と振り返ります。
寝る間も惜しんで仕事に全力投球する日々が5年ほど続きましたが、仕事を辞め北海道に帰ることにします。「やりがいがあり、仕事はとても楽しかった。けれども身体の方がもたなくなってしまった」
北海道に戻ってからも数年間、関口さんは放送関係の仕事に携わっていました。しかし、84(昭和59)年、父功四郎氏を傍で支えようと、シオン・樹脂工業(現在のシオン)への入社を決意します。
同社は、功四郎氏が60(昭和35)年に合成樹脂等による防食・防水の施工加工を目的に立ち上げた会社です。社名にある「シオン」は、イスラエルにある聖なる丘の名前で、熱心なクリスチャンだった功四郎氏は、キリスト教主義をバックボーンにした会社経営を目指し、「いつまでも存続するものは信仰・希望・愛である」という聖書の言葉から、基本理念に「信・望・愛」を掲げたといいます。
90(平成2)年には功四郎氏の願いでもあった社歌を制作します。歌詞は社員から募集し、曲は関口さんが担当しました。「歌いやすくするためのメロディーを作るのは、とても難しかった」
同年11月に創立30周年を迎えたシオン・樹脂工業は、92(平成4)年に「シオン」に社名を変更し、関口さんが代表取締役社長に就任。「社員はプライドを持って仕事をしている。だから現場には口を出さないと決めていた。社員を信頼し、何かあったときに責任を取るのが社長の役目」と話します。
また、社員教育については、「我が社では上に立つものに対して社長らが厳しく指導する。それは上が駄目なら下も駄目になるから。そして、仕事はチームで取り組むもの。立場関係なくフラットな関係でいられるよう心がけることも伝えている」と語り、これが先代から続く「社風」だといいます。
2011(平成23)年に関口さんは代表取締役会長になり、代表取締役社長には菅井潔氏が就きました。「親族外継承は創業者の意志だった」
関口さんは「先代の考え、シオンとしてのあり方を継承していくことを大切にしてきた。会社は先代からの預かり物。2代目はその預かり物を3代目に引き継ぐことが仕事」と語り、「会社を愛してくれる人に託すことができて良かった」といいます。
創業から62年、協力会社は40社、従業員は50名に上ります。「現状、4代目や5代目まで見通せている。これは社員の安心にもつながるしありがたいこと。社員の幸せが一番、みんなが幸せでいられるような会社であり続けたい」
同友会には先代が1973(昭和48)年に入り、それを引き継ぐ形で96(平成8)年に入会。先代が亡くなったばかりの関口さんをいつも気にかけ、社長としての心構えを教えてくれたのは大久保尚孝専務理事(当時)です。色々な社長に会い、人となりや考え方を学んだといいます。
札幌支部の白石・厚別地区会の幹事になった当初は幹事会の出席も乏しく、幹事を引っ張り出すところから地区会活動が始まったそうです。「幹事会が中心にならないと地区会は活発にはならない」と語り、地区会活動の活性化や地区会独自の幹部社員研修「次世代の星の会」の発足に尽力。2015―16(平成27―28)年には白石・厚別地区会長を務めました。
「同友会での活動でも、自分達の仕事でも、後世に引き継ぐものは大切にしながら、今の時代に合うように変わっていかなければならないこともある。どんな形に変わろうとも大事なことは受け継がれていくのではないかな」
せきぐち・ひろみ 1948年生まれ、札幌市出身。大学卒業後、放送関係の仕事を経て、84年にシオン・樹脂工業(現・シオン)に入社。 シオン=本社・札幌市。1960年、功四郎氏が創業。防食・防水・耐摩耗舗装等の加工や工事、トンネル漏水防止など。従業員数50名。 |