【わが人生 わが経営 134】道北塩業(株) 代表取締役 井内 正樹さん(74)(道北あさひかわ支部)
2022年08月15日
塩の安定供給を維持 多角的な視点で会社変革
塩の卸売業を営む道北塩業で、2008(平成20)年より社長を務める井内さん。経費削減や新事業の創出、札幌での子会社設立など、専売制度が終わり生き残りを模索していた同社の改革を進めます。「塩の世界とは無縁の業界でキャリアを積んだからこそ、人とは違う視点で会社を見ることが出来たのだと思う」と、社長となってからの日々を振り返ります。
井内さんは、1947(昭和22)年、旭川市で生まれます。高校を卒業後に上京し、都内の大学に進学。中退後、業界紙の記者となり、プラント業界の動向を追いかけていました。5年ほど勤めていた井内さんですが、その頃相次いだ企業爆破事件を間近で経験し、衝撃を受けます。「記者の頃によく訪れていた丸の内で、三菱重工のオフィスが爆破され、亡くなった人も出た。このままではいつか自分も事件に巻き込まれるのではないか」と不安を感じ、旭川へ帰郷。
旭川では不動産会社に就職します。当時はマンション開発に注目が集まる時代で、東京でマンションに住んだ経験のある井内さんに、白羽の矢が立ちました。車社会が進む旭川の状況に着目し、戸数よりも多く駐車場を設けるなど工夫を凝らした結果、順調に事業は拡大していきました。「当時は本州企業の進出も少なく、努力次第でシェアを取れると感じていた」とキャリアを積み、60歳まで会社を勤め上げました。
実家が塩の専売に携わっていた関係から、道北塩業の株主で非常勤取締役も務めていた井内さんでしたが、「不動産とは違い、薄利多売な塩業界は不思議な世界に見えた」と、当初は興味がありませんでした。ところが、同社が赤字決算に陥り、井内さんに社長就任の依頼が来ます。「3年で業績を回復させる」と宣言し、社長に就任します。
同社は留萌や稚内など、道北の塩元売り業者が集まり47(昭和22)年に創立。道内には4つの専売業者があり、同社は留萌の塩蔵カズノコの製造業者や、宗谷地方で採れるホタテの加工業者などへ塩を供給していました。長らく塩は専売だったため競合相手はなく、競争意識は薄かったと話します。「就任挨拶に向かったとき、社長が挨拶回りに来るなんて考えられないと嫌み混じりに言われた」と当時の状況を振り返ります。
02(平成14)年に塩の販売が完全自由化。また、冷凍技術の発展で保存用としての塩需要減少や、食品加工に使う水産物の漁獲量減少で、塩の使用量が大きく減り、井内さんが社長となった当時、塩を巡る環境は厳しい時代へ変わりつつありました。
井内さんがまず手を付けたのは経費削減です。当時、塩の配達は外注で、毎日取引業者に塩の配送をお願いしていましたが、自社配送に切り替え、週1回の配達に変更。配送の効率化を図りました。
「塩の需要が伸びる見込みは薄く、卸売の収益が縮小しても会社を支えられる事業が必要だ」と考えた井内さんは、不動産会社に勤務した経験や人脈を生かし、不動産事業も始めます。団塊世代を狙って介護老人保健施設など不動産の開発を進めました。
改革を進める中で大きな転機が訪れます。札幌で塩の卸売を担っていた会社が恒常的な赤字に苦しんでいたため、事業を引き継ぎ、19(令和元)年に北海道ソルトを立ち上げます。札幌で卸売する子会社を設けたことで、道内の大手小売業者との取引も拡大し、収益が増加しました。「塩の安定供給を維持できたので安心した。当社としても道央全域にエリアを拡大できたのは大きかった」
塩の輸送にも変化が現れました。新設した子会社との共同物流に取り組んだ結果、石狩港で塩を卸した船が留萌港へ来るようになり、留萌での仕入れが8回に倍増。固結していない新鮮な塩を供給できるようになったほか、在庫を小分けにして管理できるようになったと話します。
ビジネスは信頼が重要だと語る井内さん。実感したのは東日本大震災の発生時でした。福島県の小名浜工場が停止したことで、塩の供給が途絶える危機を迎えましたが、メーカーと関係を構築してきた井内さんは、優先的に塩を供給してもらえたと語ります。「人間関係は仕事の基本。これからはメーカーも自社も人が変わっていく。その中でもこれまで積み上げた信頼関係をどう発展させていくか、考えていかなければならない」
同友会には、道北塩業として76(昭和51)年より在籍してきたことから、前社長より引き継ぐ形で09(平成21)年に入会しました。
いうち・まさき 1947年12月7日、旭川市出身。2008年より現職。19年に北海道ソルトを設立し社長に就任。 道北塩業=本社・旭川市。1947年創業。塩、食用油、にがりの卸売業。資本金3000万円。従業員10名。 |