【わが人生 わが経営 132】(株)ホッコウ 代表取締役 宮本 悦朗さん(74)(札幌支部)
2022年06月15日
通年型農業の確立へ 法人化で雇用と産業維持
「人生50年だった時代は20代で人生が決まっていた。今は人生80、90年時代。長くなった人生の中で何が起こるか、何を起こせるか分からない。学歴で人を振り分け、その人の人生を決めても良いのだろうか。何倍も残されているその先の人生で、何を起こせるかちゃんと評価したい」
宮本さんは、1947(昭和22)年、札幌市で6人兄弟の長男として生まれます。高校、大学時代は空手部に所属し、部活動にも励みました。70(昭和45)年に大学を卒業した後、農業の経営規模拡大や生産性向上に資する事業を実施する公益財団法人北海道農業開発公社に入社します。
同公社では、財務、総務、人事、秘書、根室支所、システム、企画など数多くの部署で勤務。根室支所配属の3年間では、酪農の現実やそこで働く現場職の大変さを目の当たりにしました。また、企画の部署では現場オペレーターの変則的な労働形態や賃金などについて、現場職の将来をどう描くか議論しました。さらに、「外部に会社をつくっては」という声もあり、新規事業プロジェクトの考案に携わることとなります。ところが、実現に向け議論を重ねたものの、中々事業化には至りませんでした。
そこで、宮本さんは「自分がやってみよう」と一念発起し、17年間勤めていた同公社を辞め、88(昭和63)年に温室や植物工場など農業施設の設計・施工を手掛けるホッコウを立ち上げます。
「組織は人で成り立っている」と言う宮本さん。人の教育をはじめ、専門家の採用などに取り組み、苦労しながらも、事業を少しずつ拡大させていきます。常に大事にしてきたことは「これで本当に良いのか」と自問自答することでした。
北海道は積雪寒冷地なので農業用施設は雪の重さに耐えられる構造が求められます。そのため「高コストな施設になってしまいがちだが、農業というジャンルに高コストはそぐわず、出来る限り低コストが本来の在り方だ」と言います。
その低コスト化に向け、宮本さんが最初に目を付けたのは、AGCが開発したフッ素フィルムでした。当時フッ素フィルムは、マーケットにはまだ出回っていない代物でしたが、AGCと連携し、建築物の屋根に使えないか模索します。フィルムは〝光を通す〟ため、中に入った光は温度に変わります。このような素材を使うことによって、施設内部に温度を維持できる仕組みを作れると構想しました。実現に向けては、農業用施設の建築基準法の規制緩和も含め国と長い間協議を行いました。
そして、2005(平成17)年に生産物の流通を担うアド・ワンを立ち上げます。10(平成22)年には、自社が建てた農業用施設で〝本当に生産者が豊かになり幸せになるのか〟を確かめるべく、農業生産を行うアド・ワン・ファームを設立し、自社の農業用施設を実際に使い検証を始めます。
農業は親から子に伝えていく歴史――と話す宮本さん。農業の問題は、多くが一人親方産業ということです。少子高齢化の中、後継する人が居ない限り、産業を維持することが出来ません。
農業を法人化することで、人を雇用しながら産業も維持出来ると考えました。さらに、人を通年雇用し続けるには、雨・風・雪を凌げる〝ハコ〟の中で、農作物を通年生産する仕組みである必要があります。このような通年型農業の展開を念頭に、施設造りや農産物マーケットの提供を一連で行っています。
農産物の生産量が少なかった初めの頃は、仲介ブローカーなど買い手を必死で探していました。「生産規模が大きくなるにつれて買い手を選べるようになる」ということを学んだと言います。
宮本さんは、組織は一人が一生懸命やって終わるということではなく、次へ次へと伝えて維持しなければならないと思っています。「ビジネスは変化する社会との関わり。自分達は○○屋だという色を持って主張しても、社会は変化する。だからこそ、会社の形態も変えていかなければならない。そのためには、少しだけ時代を先読みし、その変化に関われるようにすることが企業の存続に一番必要だ」と言います。
「企業が良い結果を出すのは社員が頑張った証。企業が悪い結果に陥った場合は経営者の責任。たとえ赤字決算でも賞与は払う」と信念を語ります。
同友会には、2001(平成13)年に入会しました。同友会からの資料やメールなどは情報収集に役立てていると言います。
みやもと・えつろう 1947年10月15日、札幌市出身。公益財団法人北海道農業開発公社を経て、88年に会社創業。 ホッコウ=本社・札幌市。1988年創業。農業施設の企画・設計・施工、管理・栽培指導等のトータルマネージメント。 |