【わが人生 わが経営 128】(有)向井茶舗 取締役会長 向井 茂代さん(85)(とかち支部)
2022年02月15日
十勝で愛されるお茶 創業者の思い胸に刻んで
「温かいお茶を飲むと心が安らぎます。これからも十勝の皆様においしいお茶を届けることが使命です」
向井さんは1936(昭和11)年、満州の生まれです。3歳の時に父が肺結核で亡くなり、日本に帰国しました。栄養たっぷりでおいしいものを食べて育ったと母から聞いています。小学校3年生の頃、現在の帯広市総合体育館の近くに爆弾が落ちました。家族そろって士幌町に疎開し、近隣農家で芋拾いを手伝いました。
創業者である先代で夫の勝典(かつすけ)さんがお茶の販売を始めたのは52(昭和27)年のことです。当時は配達主体で、自転車の荷台にお茶の箱をくくりつけて1軒ずつ届けました。十勝は平地が多く、自転車の走行に向いていました。
最初のお客様は、山崎石油の方々です。先代が旧制帯広中学校を卒業後に入社し、7年間お世話になったご縁がありました。「商いには奉仕の精神が大切。社会に役立つことをしなさい」という山崎社長の教えがあります。「今も私の胸に刻まれています」と話します。
向井さんがお店を手伝うようになったのは、55(昭和30)年に先代と結婚してからです。自宅を改装して店舗を構えたのはこの頃です。茶葉は少量ずつ届けることで、少しでも鮮度が高くておいしい1杯になるよう心がけました。先代と共に自転車をこぎ続ける日々が幕を開けました。
75(昭和50)年には先代がイトーヨーカドー帯広店への出店を決断しました。これが本格的な店舗販売の始まりです。向井さん自ら店頭に立ち、お店の前を通る人にお茶の試飲を熱心に勧めました。実際に飲んでもらえば、香りや味の良さが伝わります。先代との大切なお店を懸命に切り盛りしました。その傍らには、いつだっておいしいお茶がありました。
向井さんは、帯広三条高校商業科で学んだ簿記やタイプライターの知識でお店を支えました。今でもそろばんの出番は毎日。珠をはじきながら「電卓よりも早いですよ」とほほ笑みます。
先代が急死したのは82(昭和57)年のことです。創業から変わらぬ味を守ると心に誓い、向井さんは会社を引き継ぎます。当時は「地域に役立ち愛され社会貢献のできるお店」を守りたい一心でした。「大学生だった息子の崇は中退し、お店の一大事に駆けつけました」と振り返ります。多くの苦難が待ち受けていましたが、何度も踏ん張りました。今では息子が社長を務め、創業時の精神を脈々と受け継いでいます。「末永く、飽きないで、商いを続けてほしい」と願っています。
同友会には82年に入会し、素晴らしい人たちとの出会いに恵まれました。積極的に足を運んだ人生大学では、経営談義に花を咲かせました。いい人ばかりで話が弾み、経営のヒントをたくさん得ました。「福原さんとテキサスさんに出店できたのは、人生大学でお近づきになれたからです」と語ります。女性部会との交流が途切れることはありません。同友会で得た強いつながりは向井さんにとって人生の宝物です。
札幌開催の中同協総会に初めて出席した時は、座長を任されました。突然のことでしたが、東京からいらした四谷工芸の内田かをり社長など周囲の助けがあり、総会を無事に終えることができました。今でも優しさに感謝しています。不思議なことに、時代の荒波などにさらされて困っている時には、必ず手を差し伸べてくれる人が現れます。同友会のつながりにも数え切れないほど助けられました。
人生を振り返ると忘れられない思い出が次々に浮かびます。中でも同友会では25周年の記念旅行が印象深いと語ります。「留守を守る人がいたから、初めてのヨーロッパ旅行が実現しました。貴重な体験がたくさんできました」と思い返すだけで笑顔がこぼれます。ピカソのゲルニカを前にした時は、広島と長崎の原爆投下を思い起こし、なんとも言えない感情がわき上がり涙しました。全ていい思い出です。
お茶はリラックス効果があり、健やかな生活を支える飲み物です。特に若い人は家に急須がなく、ペットボトルや缶に入ったお茶を飲むことが多いと聞きます。コロナ禍で「おうち時間」が増えました。お茶を飲む習慣は、忙しい日々のストレスを和らげます。これからもお茶のおいしさや魅力を知ってもらうために工夫し続けます。
向井さんはねずみ年に生まれました。先代から受け継いだ会社を守りながら、次の年女を元気に迎えることが目標です。
むかい・しげよ 1936年4月12日、満州で生まれ、十勝で育った。帯広三条高校商業科卒。 向井茶舗=本社・帯広市。1953年に創業し、90年会社設立。茶小売業、静岡茶・宇治抹茶・昆布茶類・乾物類・茶器類などを販売。 |