【わが人生わが経営120】(株)りんゆう観光 取締役相談役 植田 英隆さん(76)(札幌支部)
2021年05月15日
同友会あっての私 ご恩返しが残っています
(株)りんゆう観光は、植田木材(現・植田木材工業)がルーツ。渡道した植田繁太郎氏が大正時代に創業、以来2代目英武氏、3代目英次氏と経営を継ぐなかで、いくども業態を変えながら存続してきました。1959(昭和34)年に札幌林友観光を設立し、藻岩山スキー場でリフト営業をスタートしたのが初代社長の英武氏と2代目社長の英次氏。いまのりんゆう観光の始まりです。
現在は層雲峡・黒岳でのロープウェイとリフトの運行に加え、旅行業も営んでいます。植田英隆さんは、その3代目として会社を支えてきました。「決して平たんな道のりではありませんでしたが、北海道中小企業家同友会での学びを糧に中小企業経営者として歩みを進めてきました」と言います。
植田さんは終戦の年の45(昭和20)年4月に、4人兄弟の長男として生まれました。大学進学で一時は北海道を離れますが、その後札幌に戻り、他社で2年ほど働きます。りんゆう観光に入社したのは73(昭和48)年。ちょうどボウリングブームが終わり、植田木材で経営した光星ユーカラボウルの数年がかりの後始末が最初の仕事でした。
代表取締役社長に就任したのは82(昭和57)年、37歳のときです。以前から簿記や経理の勉強はしていたものの、「中小企業経営の〝いろは〟も分からないままではいけない」と考えていた植田さんは、前職の会社が北海道同友会に所属していたこともあって、同友会には73(昭和48)年の早くから、弟の惇慈さんと入会していました。このことが、その後の植田さんと会社にとって大きな力となるのです。
28歳で入会した当時の同友会は創立4年目で、会員数もまだ300名ほど。「専務理事の大久保尚孝氏や初代代表理事の井上良次氏など、設立時の役員の方々と直接意見交換できたことは私にとって最初の財産」。そして、「太陽光がプリズムを透れば七色であるように、会員は様々、同友会は無色です」との教えに目からウロコ。「職種も考え方もバラバラな会員たちが、互いを認めあい、ひとつのテーマに遠慮なく意見を交わす道場のような雰囲気でした。生涯の友人も得、刺激を受けました」と、創立間もない時期を経験できた自分は幸運だったと語ります。
会社を切り盛りして知ったのは、5年にいちど、10年にいちどは、難題が起きる、襲ってくるということです。祖父や父の代にも大きな転換を迫られる出来事はありました。植田さんが経営を引き継いでからも、黒岳沢防災計画に派生した駐車場問題、メイン銀行だった拓銀の破綻、東日本大震災などが起こり、その都度、それぞれに違った対応が問われました。
同友会はその答えをストレートに教えてくれるところではありません。判断がつかない、あるいはどうすべきか、という相談に、大久保さんですと誰かの意見や体験を紹介し、自分の頭で考えなさいと突き放すのです。結論ありきの対応ではありませんでした。
仲間の会員たちとの切磋琢磨も、大きな刺激です。相談があれば誰かが必ず応えてくれる会員同士の関係も楽しく、植田さんははじめの2、3年は3日に1度のペースで同友会事務所に通い、相談を繰り返しました。
また、「やりなさい」と言われたことは、断らずに受けてきました。同友会大学、共同求人活動、消費税問題や政策活動などなど。中小企業憲章運動にはのめりこんだものです。
そうして植田さんが同友会で得てきたものは、切り抜ける力だったと言います。そして「経験も知識も不足していた私のような若輩者の中小企業経営者ほど、入会すると得るものが多い」と続けます。
83(昭和58)年に開始した旅行業部門は、山と自然をメインにした旅を扱い、大手と差別化を図りました。その立ち上げは、同友会で一緒に学んだ弟の惇慈専務(2015年逝去)が中心となって進めました。今では日本百名山ツアーの催行もやりきり、世界の名だたる山々へのツアーも自社企画して、たくさんのお客さまをご案内するまでに成長しました。
会社は現在、息子の拓史氏が代表取締役社長を受け継ぎ、親子ともに会員として活動しています。新型コロナウイルスという難題がまた世界を襲っていますが、会社一丸で奮闘努力し、その経験は同友会にも共有しています。
「同友会への感謝をどんな形でお返しできるかが、今後の私の課題です」と、植田さんはこれからの活動への気持ちを語ります。
うえだ・ひでたか 1945年4月8日、札幌市出身。82年に代表取締役社長就任。代表取締役会長などを経て、現職。 りんゆう観光=1959年設立、89年に現社名へ変更。札幌藻岩山スキー場、黒岳ロープウェイ・リフトの運営、旅行業など。 |