【わが人生わが経営 105】十勝三菱自動車販売(株) 代表取締役社長 鈴木 亨さん(77)
2020年01月15日
ディーラーは人が柱 サービスに経営精神体現
「私たちの商品は何だろうとずっと考えてきました。でも、メーカーの商品は〝車〟で、ディーラーは〝人〟なんだと気が付き、ストンと納得できたんです」。昭和の自動車販売は、多くの消費者が自動車という製品を欲する売り手市場の時代。忙しさに追われながらも、着手できずにいた課題を心に留め置いたことが今につながると鈴木さんは振り返ります。
鈴木さんは1942(昭和17)年に十勝の浦幌町に生まれ、地元の浦幌中学校を卒業。高校は父が友人を頼りに探した東京の早稲田高等学校に進学します。学校から徒歩10分の永井武彦さん宅に下宿。15歳の一人暮らしが始まります。
永井さんから書生と呼ばれ、庭掃除も手伝う毎日。鈴木青年は「下宿生」というより「家族」としての生活に親しみを感じ、今も親交のある永井さんの息子さんは兄のような存在だったそうです。
大学は日本大学の理工学部経営工学科に進学。高校で理系クラスに進みましたが、根は文系の鈴木さんは経営工学科を選択します。「今思うと文系とか理系とかは関係ないですよね。最後はその人物の人間力が問われるわけです」。
東京で就職活動もしましたが、十勝に戻るよう打診が。65(昭和40)年、叔父の鈴木人勢さんが会長を務める、帯広ふそう自動車に入社します。配属されたのは上司も部下もいない企画室。社長のスピーチ原稿から年間改善計画まで、あらゆることを任せられました。部署に1人の環境で、ある意味丸投げされたことが考える力を身につける糧になったと振り返ります。
昭和は車業界が売り手市場だった時代。ディーラーもその数を増やしていきました。叔父にも三菱ふそうと同系列の三菱自動車から打診があり、77(昭和52)年に十勝三菱自動車販売を創業。常務として移籍した35歳の鈴木さんを含め、10人ほどでの旗揚げでした。
最初の数年は赤字続き。会長の叔父をトップに、鈴木さんと後に専務となる井上節夫常務の経営陣が試行錯誤を重ねます。社長も専務も置かない体制で、会長から「店を閉めるか」と切り出されたこともありましたが、徐々に経営は軌道に乗り創業から12年で当初の赤字を解消します。「会長はよく我慢してくれましたね。売れ筋のミラージュが業績回復に貢献しました」と当時を振り返ります。
社長就任は86(昭和61)年。毎日の仕事に追われる中、ふと仕事に疑問を感じます。「車はメーカーが作ります。では、ディーラーの商品は何なのか。私たちから車をとったら何が残るのか」。
そんなある時、自分たちの商品は〝人〟なのだとの思いに至りました。着手できずにいた課題はメモにして机の引き出しの中。数千にわたるメモをまとめ、〝人〟を柱として経営精神をまとめた冊子『新・十勝三菱』を編集。作業に2年を要しますが、今でも新入社員一人一人に冊子を手渡し、十勝三菱人としての気構えを伝えます。
「商品は人」の精神は、具体的なサービスとして体現されています。来客があると、女性社員が駐車場まで小走りで出向きお出迎え。国道から見えるショールームには、新車を展示していません。「オーナーさんの気持ちになって考えてみたんです。新車がショールームに見えたらマイカーを古く感じてしまいます。買うかもしれない人がお客様じゃない。今乗っていただいている方がお客様なんです」。
21世紀に入り、メーカーのリコール隠し問題と燃費不正問題という二つの荒波を経験。ただ、それを乗り越え今があるのも『新・十勝三菱』の精神と、それを理解してくれた社員のおかげだと感謝します。ショールームに新車を置かないという思い切った発想はメーカーから反発がありましたが、女性社員を中心に「リコール問題が起きている時期だからこそやりましょう」と背中を押す声があったのです。
現在、普通は新車を展示するであろうスペースは、来店客がくつろげるサロンと子どもたちの遊び場です。お子さんが入会するキッズクラブ会員は現在900人を数え、誕生日には全員にバースデイカードが贈られています。鈴木さんが長年かけて築き上げた十勝三菱の精神は、従業員の手からオーナーのお子さんにまで届けられているのです。
同友会には、85(昭和60)年に入会。求人委員会を経て、とかち支部副支部長、理事を歴任しました。求人活動では学校や進路指導担当の教諭と意見交換。高校生は同時に複数企業を受験できないという現状を重く考え、「大学生は複数受験可能でなぜ高校生はだめなのか」と改善を呼び掛けました。
すずき・すすむ 1942年6月22日、浦幌町出身。帯広ふそう自動車勤務を経て、77年十勝三菱自動車販売に移籍。86年から現職。 十勝三菱自動車販売=本社・帯広市。三菱自動車および中古自動車の販売など。従業員数55人。 |